鴎外原作・宇野信夫脚色の新歌舞伎「ぢいさんばあさん」の二回目です。前回、原作の気品と風格を損なう事無く、しかも風合いとして使える幾つもの工夫を脚本家は施して居りますと、申し述べました。その一つが、主人公伊織の無意識に鼻を手で触る癖であり、女房のるんがこれを時々たしなめる事で、二人の仲の良さが自然と湧き上がる、そんな工夫でして、これが幕切れに使われて居ります。るん「明日はお墓参りに行きましょうね」伊織「うん、行こう」ここで思わず鼻に手をやります。これが切っ掛けで柝の頭が打たれ、るんがさり気なく伊織の手を抑えて、二人で顔を見合わせ微笑み合い、視線を散っている桜の花に移す中で、幕となります。そう申し上げました。
さて、今は昔の1994年に、現仁左衛門の孝夫と玉三郎がこの芝居を手掛けました。孝夫は初演で、玉三郎が確か二度目であったかと思います。天下の美男役者と美形の女形が、本格的な老け役を演じると言うので、大変な人気を呼んだものです。その何日か目に、孝夫が体調を崩し高熱を発して休演のやむなきに至ります。劇場はこれは大変とばかりに、その月は一役しか持って居なかった勘九郎(現勘三郎)に代役を振ります。勘九郎は大慌てです、と言うのも、この芝居、伊織役は当然の事乍ら、端役も一幕の久右衛門を10年以上前に17代目勘三郎の伊織に付き合っただけだったからです。必死になって全幕分の台詞を一夜漬けで覚える努力をします。それでも心配なので、台詞を順番に紙に書いて弟子に持たせます。お弟子さんは、伊織からは見えるけれどもお客さんからは見えない(例えば障子の影などの)処に潜んで居て、次々に捲って行きます。それをチラチラ見ながら、劇を進行させ、鼻を触る癖の処もちゃんと演じて、いよいよ幕切れに差し掛かります。
るん「明日は、坊のお墓参りに行きましょうね」 伊織「うん、お墓参りに行くとしよう」 ここで約束の柝の頭が来ません。伊織が“あれっ”と思います。下から立膝のるんが小声で「あなた、ハナよ」と促します。“花? そう言えば桜の花が散っているな”と思い「坊のお墓にも桜が咲いて居ような」と、台本に無い捨て台詞を言います。未だ柝の頭は来ません。玉三郎がもう一度「あなた違うの、ハナに触るの」と囁きます。“花に触る? 判った”とばかり伊織は、身を半身に構え手をずいと差し出して、散って居る桜の花びらに触る仕種をします。柝が来ません。仕方なく勘九郎は「あはははは・・・」と笑い出します。ここで、流石の狂言作者も気付いて、エイッとばかり柝の頭を入れ、足早に幕となった様です。勘九郎は“やれやれ急な代演の第一日目がどうやら終わった”と、肩から力を抜いて体を楽にして、幕の下りた舞台を見やります。ばあさんの玉三郎はこの時、畳の上を転げ回って笑いこけて居たとか。
この逸話は、業界紙のゴシップ欄からの剽窃でも無ければ、大部屋の役者さんの暴露話でも在りません。後年、勘三郎襲名で数々のインタビューをこなした勘九郎ご自身が、その中で語って居りました話ですので、ここでご披露しても叱られないと思って居ます。
それにしてもこの舞台を実際に見たかったものです。近年、現勘三郎は本役で伊織に取り組み、玉三郎のるんと共演して居りますが、幕切れは少し違えて上演して居ります。
今回は純粋の歌舞伎劇でそれも新しい“新歌舞伎”の演目のご紹介を致しましょう。「ぢいさんばあさん」の原作者は森鴎外でして、活字の大きい文庫本でも10ページ位の短い小説です。これを、戦後の昭和26年に宇野信夫が脚色し、同じ年の7月に、歌舞伎座(二代目猿之助・三代目時蔵)と大阪歌舞伎座(十三代目仁左衛門・二代目鴈治郎)で、東西同時に初演となった珍しい記録が残って居ります。以後度々上演され人気の演目の一つになって居ります。先ずは、その粗筋から見て見ましょう。
一幕目。江戸城大番役を務める美濃部伊織の新婚の小さな離れ屋敷。庭の一角に櫻の若木が在って今を盛りと花を付け、チラチラと花びらを降らせて居ます。伊織は役目柄の京都詰めに明日出発予定、新婚の妻のるんは生まれて三ヶ月の男の子を腕の中に抱いて、別れを惜しみます。伊織はるんの頬の蚊を追ったり、るんは、鼻を手で触る伊織の癖をたしなめたり、何とも仲の良い二人の些細な仕種が重なって、時間が流れますが、伊織の「何、来年この櫻が満開になる頃には又三人で花見が出来よう」との言葉で幕となります。
二幕目。伊織は京都で仕事を続ける内に、良い刀を見つけ欲しくなります。持ち合わせの金が足らず、同僚に借りて刀を手に入れます。ある夕べ、伊織は月見の宴を催し仲の良い仲間を呼び席上手に入れた刀を披露します。そこへ、金を借りた同僚が酔って闖入して来ます。金を借りた相手を呼ばずに刀の披露とは何だと乱暴狼藉、挙句の果てその刀を貶して「こんな刀で人が切れるか」と叫びます。伊織が思わず切りつけ事件となります。
この後、切られた男はそれが元で死にます。伊織は取り調べの後、越前の有馬家へお預けの身となります。るんは、暫くの後に折角の男の子を流行り病で亡くし、黒田家の江戸屋敷に奥女中として働き始めます。時は移って37年後、るんは黒田家を退職しますが、ほぼ同じ時に伊織は許されて江戸へ帰って来ます。周りが気を利かせて、元の新婚時代の家に手を入れて、二人を住まわせる手筈を整えます。
三幕目。一幕目を同じ離れ屋敷、でも庭の櫻は見事な成木に育っていまして、満開の花を付けて居ます。勝手知った我が家とばかり伊織が、続いてるんが入って来ますが何しろ37年振り、最初はお互いにそれと判らない等と言う処から始まります。やっと落ち着いて夫々に身の上話を簡単に始めます。どうもるんの方が点が良く、黒田家からは年金が出ますし、表彰状やらご褒美やらを頂いたりした事が話されます。「明日から又二人の生活が始まるのだ」と言いつつ、縁先に二人が出て来まして、「明日は坊やの墓参りに行こうな」と言葉を交わし、桜の花びらが散るのを見ながら幕となります。
粗筋を書きますとこんな風になりますが、これの何処が面白いのかと不思議がられると思います。鴎外の原作も、さっと読むと何が言いたいのかな等考えますが、落ち着いて二三度読みますと、読み終わって心のどこかが暖かくなる感じが広がります。その感じを舞台で出すべく脚本家は種々の工夫を凝らします。原作を併せ読むとそれが良く判ります。ここでは二点ご紹介して置きましょう。
先ず、庭先の櫻の木です。これで時の移りと共に、満開の桜の持つ雰囲気を使う事が出来るのです。もう一つは、伊織の癖である情感がふと高まると思わず自分の鼻を手で触る仕種です。これが上手く使われて居ます。三幕目、お互いにそれと判らないのですが、伊織が庭の櫻を見上げて思わず鼻に触って、るんが先に伊織だと気付くくだりとか、幕切れ「明日は墓参りに行こう」と言って、伊織が手を鼻先に持って行きます。舞台では此処で柝の頭が打たれます。るんがさり気なくその手を押えて、二人で顔を見合わせ静かに微笑み合い幕となるのです。何と無く目頭が熱くなる幕切れなのです。
今回のテーマは、「名優何某の残した名画の中から“さわり”の場面を集めて見ましょう」等の折に使われる“さわり”に付いてです。
先ず辞書を見てみますと、最初に「何かにふれる事、若しくはふれて居る感じ」と言う意味が出て来ます。この使い方の例が「肌ざわり」とか「手ざわり」等の表現に繋がる事は、直ぐに推測が付くことでしょう。
次に浄瑠璃での使い方で、他の音曲の音節を取り入れた箇所と出て来ます。浄瑠璃節は、先行の多くの語り物系の音曲を言わば総合する形で出来上がった経緯が在ります。この時の先行の芸能は、例えば平曲であったり説教節であったりした訳です。この習慣、つまり良いものであれば積極的に他の音曲の音や節を取り入れる作曲の方法は、以後も長く続きます。ですから、新しい本に新たに作曲(曲付け)をする時は、その折に流行っている歌謡や民謡等の音節を借用に及ぶ事が良くあるのです。この時、浄瑠璃はその節回しに於いて他の音曲に“触って居る感じ”になり、こう言う部分の事を“サワリ”と呼ぶようになります。そして、こう言う風に節回しに最大の精力を集中して曲付けを行う箇所は、言わば聞かせ処な訳で、女性の登場人物に依る“口説き(くどき)の部分等に良く現れます。ですから、浄瑠璃におけるサワリの部分とは、他の音曲から節を借りてまで練り上げた聞かせ処、語り処になるのです。この意味が、一般化した使い方が、本欄書き出しの“さわり”になるのです。
「君の話は長い、さわりの部分だけ」等言う上役は、果たして言葉の元々の言われをご存知なのかな等、不逞な事を考えたりします。
さて、浄瑠璃にはもう一つ重要な“さわり”が在ります。やや技術的な話になりますが、それは三味線の構造から来るものなのです。
太棹三味線の、棹の先、つまり糸巻きに近い処を良く見ますと、棹の始まりの部分に面白い工夫が施されて居る事に気が付きます。先ず糸巻きの直ぐ近くに金属製の駒が噛んで居ます。この駒の事を上駒(かみこま)と呼び、別名を「触り金」と言われて居ます。この駒から胴の上の駒迄が各糸の鳴る基本の長さになるのです。でも、良く見ますと、この上駒は、三本の糸の内、二本しか乗せて居ません。一番太い一の糸は、外れて居ます。さて、その上駒の直ぐ近くに金属性の部品があり、これが中ほどでやや盛り上って居ます。この金属の部品をサワリと呼び、盛り上がりをサワリの山と呼びます。さて、一の糸は、上駒に乗っておらず他の二本と比べると微妙に糸の位置が低いのです。ですから、一の糸は、開放弦で弾きますと、サワリの山に触れたりします。この時に、複雑な音を出して、言わば音がうなって聞えたりします。この技法もサワリと呼ばれます。このサワリの音は、コントロールが可能です。それは、胴の上の駒を替えて駒の高さを変える事に依り、サワリを強く出す様にしたり、逆にサワリの音をさせなくしたりするのです。こうする事で、三味線の出す音の表情を変え、その場に相応しい音で大夫の語りを支えるのです。ですから、段の途中で三味線方が駒を替える事は珍しくありません。この欄でもご紹介した「三十三間堂」でも「近頃河原達引」でも、くどきの場が終って、段切れ近くになると、三味線方は駒を替え、派手な音作りの出来る様にして、木遣音頭の場や猿回しの場を盛上げて行くのです。
最後に胡弓に付いて一言。構造的に三味線と全く同じ胡弓は、このサワリの構造も持っています。ですから、胡弓の音は、どこか複雑で哀愁に満ちた音を出します。見てくれが同じである中国系の二胡はサワリを持っていません。ですから、出て来る音は極めてピュアーな音になります。現代の日本人には、この純粋な二胡の音を好む人が多そうですね。
次回文楽を楽しまれる折には、三味線方が何時駒を替えるかな等も、少し注意してご覧になって下さい。
さて、今回は壷坂の二回目で、その見所や聞き所を数えて見る事にしましょう。前回も少し触れましたが、この作品は、良弁杉と双子の兄弟の様な作品なのです。その理由の一つは、作者と言うか補筆者が、明治の三味線の大名人である団平の奥方の千賀女であり、曲付けが団平自身である事が共通である点が挙げられます。ですから、これ等の作品は明治期の物であり、浄瑠璃としては新作で在ると言えましょう。もう一つの共通点は、明治初期に我が国を覆った所謂“廃仏毀釈”の騒ぎで困難な時代を迎えた仏教が、やや落ち着いたのを機に、失地回復の為の運動の一環として、色々な処で仏様や観音様の有り難さが語られなおす、そんな流れの中で作られたと言う点も同じなのです。つまり、仏教の宣伝用の作品とも言えましょう。大団平は、金比羅様の熱心な信奉者であったと伝えられます。その壷坂の見所・聞き所です。
・ お里のクドキ。この中に良く引かれる“三つ違いの兄さんと”と言う文句が在ります。この言い回しは、文楽や浄瑠璃をご存知無くともお聞きになった事が在るのでは無いかしら。でもその後はと言えば、ご存知の方は少なくなります。続きは“言うて暮らして居る内に、情けなやこなさんは、生まれもつかぬ疱瘡で”と、二人の生い立ちと沢市の眼病の言われを語るのです。このお里のクドキは、沢市の“お前は毎日朝の暗い内から出かけて暫く家を空けるが、どこぞに良い男でも出来たか”との問いに、“何を仰るのですか、私は毎朝壷坂寺に貴方の目が良くなりますようにと、願を掛けてお参りをして居たのです。そもそも私達二人は”とあって、先の“三つ違いの”に続くのです。このくだり、団平の良い節回しが付いて居ります。
・ 地唄・ご詠歌。沢市内の段には、“夢が浮世か、うきよが夢か”と始まります。その後に“鳥の声、鐘の音さえ身に沁みて”と言う文句が出て来ます。両方共地唄の中から引かれて居り、最初が「ままの川」次が「菊の露」と言う題です。二つとも、思いのままにならない廓の恋を嘆いた唄で、沢市の気持ちを表して居ます。曲は夫々元の曲から引かれて居りまして、義太夫節とは若干雰囲気の違うメロディなのです。山の段では、ご詠歌が歌われます“うきがなさけか、なさけがうきか”これも浄瑠璃節から少し離れて耳の気分転換も意味も持たせた使い方になって居ます。浄瑠璃が貪欲に他の音曲を取り入れた実例です。又、浄瑠璃に「菊の露」が出て来るとどうもその人は死ぬ事が多いらしく、そんな運命を暗示する意味合いも在りそうです。曲全体の中にこれ等の部分を活かす工夫が良くなされて居ます。
・ 身投げの気持ち。山の段では、先ず沢市が次いでお里が身投げを致します。この時、沢市の気持ちは“俺の目は治らんだろう、ならば生きて居てはお里の足手まといになるだけ、俺が居なければ彼女も幸せになれる”と、絶望と言うよりは、諦観から身を投げます。これに対してお里の方は“これまで私が一所懸命やって来たのを何と思うのか、それも一人で行くとは何事か”と、堪えていた思いを爆発させ激情に駆られて飛び込みます。ですから、気持ちにこれだけの差がある訳で、曲は良くそれを表し伝えます。大きな聞き所です。
・ 初めてでは無かろう。最後に、観音様に救われる二人ですが、沢市の目も治ります。この時沢市がお里に“これはしたり、初めてお目に掛ります”と言います。直ぐ後に上る朝日に“初めて拝む日の光”と出て来ます。さて、先のお里のクドキの文句ですが、一緒に暮らして居る内に沢市は疱瘡に掛かったと在ります。ですから、ここでお里やおてんとう様に、“初めて”お目にかかると言うのは、論理的で在りません。“久し振りに”と変えるべきだと、昔の浄瑠璃の評論家である杉山其日庵が述べて居りますが、一理あると思われます。
東日本地震のあまりの被害に驚いた事と、計画停電だの都市交通の混乱等がありまして、暫くお休みを致しました。国立劇場も、3月中は全ての自主公演を取り止めて居りましたが、今月から再開致しましたし、暖かくなりその為電力消費の需要も落ち着いたと言うのでしょう、電車や地下鉄もほぼ通常通りになりましたので、このコラムも徐々に復活致そうかと存じます。今後共、どうぞ宜しくお願い致します。
本日取り上げるのは、前回取り上げました良弁杉の双子の兄弟の様な作品です。明治初期の廃仏毀釈運動の結果、このまま廃れてしまうのかと思われた仏教が、種々な形で復活運動を展開させたらしいのです。その一環として、文楽の世界にも、観音様のご利益を判り易く語る新作の連作が出来た様です。良弁杉もそうですが、今回の壷坂もそんな一巻なのです。そして、この二作は、名人の二代目団平が曲付けを行い、それに先立って彼の奥方の千賀女が大幅に筆を入れた経緯も同じで、ですからこのご夫婦合作の双子の兄弟なのです。先ずは、粗筋から紹介致しましょう。
・ 「土佐町松原の段」。今日は壷坂寺の縁日。人々が集まってお寺の霊験のあらたかさに付いて話をして居る所へ、沢市の女房お里が通り掛かります。皆が、お里が大変に優しく沢市に仕えるのを褒めますと、お里は「あの目を何とか見える様にしてあげたい」と真情を吐露しまして、皆ほろりとする丈の、序の口の段です。
・ 「沢市内の段」。沢市は目が見えないのですが、実直に三味線や琴の稽古を付ける事で細々と暮らして居ます。お里も一所懸命賃仕事で助けて居ます。お里が外から帰ると、沢市は三味線を弾いています。「あら、ご機嫌の良い事」「そうじゃないちと話がある」ここから二人の会話が始まります。「前から聞こうと思って居たのだが、お前は毎朝4時前にそっと家を抜け出して、暫く留守にするが、どこぞに良い男でも出来たか、そんなら言って呉れれば、俺は身を引くよ」。これにお里が激しく反応します。「そりゃ胴欲な沢市さん、三つ違いの兄さんと・ ・ ・ 」。名高いお里のクドキの場面です。私は毎朝壷坂様にあんたの目が良くなるようにとお参りをしていました、それを他に男とは、と言った内容です。これには沢市も一言も無く謝ります、と共に一緒にお参りしようと言うお里の誘いに乗るのでした。
・ 「山の段」。二人は壷坂寺に行きます。途中目の不自由な沢市を何くれと無く気を遣うお里がいじらしいばかりです。山の上にあるお堂で二人して一心に祈りますが、何も起きません。沢市は「これから三日ここにお篭りしてお願いする」と言い出し、では必要な物を取ってくるからねと、お里は一旦家に引き返します。沢市は、「これだけお願いしても駄目なのだから、駄目なのだろう。ならいっそ居ない方がお里の為だ」とばかり、絶望して、谷底に身を投げます。帰って来たお里はこれを見つけ「何で、一人で行くの」と、激情に突き動かされてこちらも身を投げます。そこへ観音様が現れて、二人の真情とお互いの愛情を愛でて、二人を生き返らせ沢市の目も治して呉れます。喜んだ二人が、朝日の中で万歳をする処で幕となります。
考えて見れば、他愛の無いお伽話ですが、文句なしの目出度い終り方もあって、見終わって極めて気分が良くなる出し物となって居ります。さて、この狂言の見所・聞き所は、次回に続けます。
我が国は、東北地方を中心に大変な災害に見舞われました。
お亡くなりになられました方々に対し、衷心よりのお悔やみを申し上げます。また、被害に遭われましたもっと多くの方々には、心よりのお見舞いを申し上げる次第です。
国立劇場も何もかも、当面全て活動・公演を中止して居ります。状況から判断致しますに当然の事と存じます。
本コラムも、更新の用意は在るのですが、新たな記事の登録は差し控えます。
暫くして少し落ち着いてから、また内外の“古典”に関してのお話を致す事にしましょう。
安心院敬白
もう半世紀も前になります。修学旅行で奈良を訪れ東大寺にも参りました。二月堂も見学し、案内の坊さんから“お水とり”の話を聞きましたが、その時に“良弁杉”も見た覚えがあります。二月堂の屋根よりも高く聳えて居た印象でして、良弁上人の伝説も聞かされたと思います。その後の知識として、あの杉の木は昭和36年に台風が来て倒れ、現在は二代目である事を知りました。今回取り上げますものは、その杉の木を巡るお話なのです。
観音様の徳を称える三十三段続きの長い台本(作者不詳)があったらしいのです。観音様の信仰の篤かった明治期の名人二代目団平が、文筆の才に恵まれた女房の千賀女の協力を得て新作として作曲致し世に出して、今や古典として文楽でも歌舞伎でもしばしば上演されるのが、この良弁杉と壷坂の二つの出し物です。
粗筋
・ 志賀の里の段。一年前に病で夫を失った渚の方は、忘れ形見の光丸を連れて、侍女達に囲まれ近くの茶畑へ茶摘がてらの遊山です。三年前に夫の前でここの場所で舞を舞ったものだと、再び舞い始めます。すると比叡颪の突風が吹き、これに乗って大鷲が飛び来たり、いきなり光丸を攫って飛び去ります。渚の方は跡を追いかけます。
・ 桜宮物狂いの段。あれから無慮三十年、渚の方は正気を失いつつ我が子を求めて彷徨います。此処は、大阪、春爛漫の桜宮、満開の桜の下で、花売りや吹き玉売りが行きかいます。そこへ、年取った渚の方が粗末な衣装を着てしかも自分は三十年歳を取って居ない風情で現れます。里の子達に囲まれて子守唄等歌っている時、川の表に写った自分の姿を認めて、フッと正気に返ります。志賀の里へ帰ろうと乗った船で、良弁上人の話を聞くのです。
・ 東大寺の段。兎も角着いた東大寺ですが、相手はお上人様、簡単には会えません。通り掛かりの親切な坊さんが、身の上を書いて、上人が毎日お参りする杉の木に貼って置けば、良弁さん読むかも知れない、とその書付まで書いて呉れます。
・ 二月堂の段。渚は、書付を大木の幹に貼って、近くに潜みます。上人の行列がやって来て、良弁は目敏く書付を見つけます。渚を呼んで、この書付の話と自分の物語はダブルけれど、自分は小さくて何も覚えが無い、貴方は何か目印か証拠になる品をその子に持たせなかったか、と聞きます。渚は、錦のお守りの袋に入れた“如意輪観音”の小さなお像を持たせたと応えます。良弁が「それはこれですね」と彼が肌身離さず持って居たお守り袋を取り出します。こうして、二人は観音様のご利益で再会出来たのです。
見どころ聞きどころ
先ず、志賀の里の段で八雲と呼ばれる二弦琴が使われます。やや特殊な雰囲気のある琴ですので、ご注意下さい。又、名人団平の見事な曲付けが随所に窺えまして、三味線を追うのも楽しい一曲です。
桜宮の段では、正気を逸して居る渚が、川に写る自分を見てフッと正気に返るのですが、首(カシラ)も装束も同じで、正気に返ったと気付かせるのは、中々腕の要る事であろうと思います。
歌舞伎でも、殆ど同じ脚本で時々上演されます。舞台が大きいだけ建物の構造も大きく、坊主や所化も沢山出て来ます。それだけ見栄えがします。機会を見つけて是非見比べて下さい。
この作品は、近松門左衛門作で1712年に竹本座にて初演されました。時代物仕立てで全五段の構成となって居ます。作品は、能の「山姥」や古浄瑠璃にあった物語等を上手く取り込んだ作りとなって居ると言う事で、ですから源頼光と彼の配下の四天王を配して作られて居ります。現在ではその中の二段目「岩倉大納言兼冬館」通称「廓噺」の段のみ上演されます。
《それまでのいきさつ》
時の権力者清原高藤の仲間である平正盛の配下に父親を殺された坂田時行と妹糸萩は、夫々に敵討ちに出ます。糸萩が目出度く敵を討ちますが、高藤に狙われこれを源頼光が匿います。それを恨んで高藤は頼光を讒言、頼光は姿を消します。
《廓噺の段》
頼光の許婚沢潟姫は、相手が突然居なくなり憂鬱です。周りの人々が何とか慰めるべく考え、何時も面白い話を三味線を弾きながら語る煙草売りを呼び込みます。この煙草売りは坂田時行の仮の姿なのです。煙草売りが求めに応じて小唄を三味線の弾き語りで唄います。そこへ通り掛かったのが、紙衣姿の八重桐、小唄を聴いて「あの歌は、自分と夫の時行とで作った歌」と不審に思い、屋敷に入り込みます。中の女中共はこれまた気分転換の材料とばかり、「ご自分の身の上話をなさい」と言い付けます。八重桐は、探し求めて居た相手がここに居たのを見つけて、身の上話にかこつけて面白可笑しく目の前の男に当て付けを言います。後で二人になった時、時行は「自分が敵討ちで苦労しているのを知らぬ筈はあるまい」と詰ります。八重桐は、何を言うか、そんな敵はあんたの妹がとっくに討ち果たした、と言います。なら高藤と正盛を討つと逸る時行に八重桐は「相手は権勢の真っ盛り、時間を待て」と諭します。その間、間抜けな役をしていられないとばかり、時行は切腹します。驚く八重桐に「俺はお前の体に入って男の子になる、そして憎い二人を討つ。お前は不思議の力を我が物とすると共に、その男の子を良く育てよ」と言って息絶えます。ここに高藤の命を受けた太田某が姫を奪いに大勢で押し寄せます。不思議の力を得た八重桐が、鬼女になりこれらの兵を取っては投げ千切っては投げと片付けます。そして深山目指して消えて行きます。
《見どころ聞きどころ》
・ 女の長話は、通例は“クドキ”と言われ、しんみりとした場面となりますが、ここでは“しゃべり”となり、早口に言い立てます。中身には本当に沢山の事が詰まって居ます。このしゃべりの芸が聞き処です。
・ 時行は最初は優男で出て来ますが、途中から荒事的な演技となります。この荒事的演技も見どころでしょう。
・ 八重桐も、最初は元気の良い元傾城として登場しますが、段切れでは鬼女となり大活躍します。途中で首(かしら)が変り、ガブと呼ばれる特殊加工した首を遣います。仕掛けを引くと、目を剥き口が大きく裂けた鬼女の首に早替りするのです。このガブの活躍が見ものです。
・ この時に八重桐に宿った子種が後に坂田金時になると言う因縁話となっています。
・ 八重桐は萩野家と言う御茶屋に居た事になって居ますが、これは当時の人気役者の萩野八重桐の名をそのまま頂戴したものと伝えられて居ます。ですから八重桐の登場の時の装束、紙衣を纏った姿は、その役者の“やつし”の芸そのままであった様です。
この一段、まるで御伽噺を聞いて居る様な感じで楽しめます。
今回は、三番の“英雄”の番です。後年(八番を発表した後で第九の作曲の前の時期)「自作の交響曲の中でどれを好むか」と言う友人の問いにベートーヴェンは「エロイカ」と応えたとの逸話があります。彼にとっても意義深い且印象の大きい曲であったと思われますが、理由として大小三つを上げて置きましょう。
先ず第一は、持病の耳の疾患に気が付き且それが深刻化しつつあり、苦悩の中にあった時代の作品であった事でしょうか。弟に宛てて遺書を書いた時期の直ぐ後に作曲されています。遺書と言っても「死ぬ」と言う文面では無く「死の誘惑を乗り越えて何とか生きる」と言った内容と伝えられていますけど。ですから、元々彼の心情であった理想的な考えやそれを実行する為の意思の力とか精神の強さ等と言う事が、彼自身の為にも重要であった頃と言えましょう。
第二は、先輩のモーツアルト(41曲)やハイドン(107曲)に比べると、彼の交響曲の総数は九曲です。誠に少ないのです。これは、社会現象として、貴族や王族のサロン等で“娯楽的”な音楽であった先輩の時代と変り、音楽ホール的な物が出来、そこで言わば“芸術”作品を多くの人々が聞くと言う形に変った事も理由の一つでしょう。別な言い方をしますと、この時代から音楽に“言葉”がどんどん入り込む事になります。簡単に言うと古典楽派の時代からロマン派の時代へ変わって行ったと言う事です。(と言っても、これは社会現象を言ったのであって、モーツアルトの曲は芸術で無いとは言いません、むしろ彼の作品こそ芸術品だと言う方の筆頭に、僕は居る心算でもありますけど)。
もう一つは、時は革命の時代であったと言う事です。フランス革命の年、ベートーヴェンは19歳でした。理想に燃え理念を確りと持ち、未来への希望を熱く胸に置いておける時代に生きて居たのです。貴族階級の出では無かった事もありますが、彼の個人的な憧れの中に革命思想はあった筈です。その確かな具体的な表象としてナポレオンに神経の焦点が合った事は疑いも無い事で、革命の理念の実現者としてのナポレオンを考え乍ら作曲したのでしょう。発表の直前にナポレオンがフランス皇帝になったのを聞いて、怒り且落胆して題名を「ボナパルト」から「エロイカ」に変更したと言う逸話も事実に近いものと考えて宜しいかと思います。
この演奏時間が一時間になりそうな長大な曲は、初演時の観客には必ずしも受けが良くは無かった様ですが、その各楽章について一言づつ述べましょう。
・ 第一楽章。出だしは主和音の強く短い音形が二回現れ、続いてチェロが力強く明瞭な主題を提示します。このメロディーが全曲を通しての有力な手がかりであり続けダイナミックな構成感を醸します。
・ 第二楽章は、葬送行進曲です。沈鬱なリズムに乗ってオーボエ以下が次々と現れ、葬送の雰囲気を高めます。
・ 第三楽章は、スケルツォです。ここでは葬送の気分は拭い去られて、明るいエネルギーに満ちた楽章となって居ます。中間部(トリオ部分)に出て来るホルンの三重奏が印象的に腹に響きます。
・ 第四楽章は、形式的には自由な変奏曲となって居ます。独特なリズムが効果的に使われ、変奏の技巧も冴えて居ます。そしてこれまた彼の他の曲同様に、圧倒的な終曲を迎えます。
大分昔、ミトロプーロフなる指揮者がウィーン・フィルとこの曲を演奏した折、練習の時に指揮者は第一楽章の出だしを、二拍子で振ったらしいのです。実演の時に彼は楽隊に断らずに楽譜通りの四拍子で振り始めた。これを楽隊は練習通りに二拍子で演奏し始め(つまり倍のスピードになったのです)、その瞬間に指揮者も楽隊も気が付いたのですが、止める訳に行かないと言うことで、そのテンポで殆ど全曲を突っ切り、35分で終わったと言う記録が在るそうです。これが出来たと言う事は、楽隊の技術力の高さに驚きますね。
録音媒体は名曲だけに沢山あります。先ずは実演でお聞きになって、C/Dも欲しいとなったら、理想的にはその実演を彷彿とさせる物を探す訳ですが、そんな暇も無いと言うのであれば、何かの縁(指揮者を聞いた事がるとか楽隊を知って居るとか、他の曲で気に入ったものと同じ組み合わせであるとかです)を頼りにお求めになる事では無いかしら。
今回は、交響曲の第七番です。実はこの曲は迫力に富んだ大変な名曲なのですが、それだけに多くの人が種々の印象を残して呉れて居ます。先ずはそのご紹介から始めましょう。
先ずベートーヴェンご自身の言葉としては「自分は人類の為に、甘美な葡萄酒を醸す酒神となり、人の魂に神聖な陶酔を与えるべくこの曲を作った」と語ったらしいのです。ですから人生とか死とか孤独・苦悩と言った形而上学とはやや距離のある曲として構想されたのかも知れません。
ワーグナーはこの曲を「舞踏の神聖化」と呼び高く評価すると共に、リストが編曲したピアノ版に合わせて実際に踊ったとも伝えられます。
フランスの作家ロマン・ローランは、上記の作曲者自身の言葉を敷衍する形で「この曲は全く泥酔者の作である。巨大な哄笑を伴う激情の興奮、惑乱する諧謔の閃き、思いもよらぬ恍惚・悦楽の態、全く酩酊した人の作である」
もう一歩進めてウェーバーは「ベートーヴェンは今や精神病院行きだ」とその印象を語って居るらしいのです。
さて、これだけ揃いますと聞きたくなりませんか。楽章毎に明確に現れるその楽章を特徴付けるリズム、その多様性により上に述べられた様な印象を与える楽曲が展開して行くのです。ですから、興奮を伝えるリズムは、極めて際立って居ます。唯、同時に注目したいのは、この曲は古典的な交響曲、つまりソナタ形式の第一楽章に始まり、ゆっくりした楽章、スケルツオの楽章、そして早い終楽章と、極めて整った形式を踏んで作曲されて居る点です。そういう意味では、彼の交響曲の中で一番“古典的”形式美を持った曲と言えるかも知れません。各楽章に付いて一言ずつご紹介致しますと、
・ 第一楽章 長大な序章がありその後オーボエが印象的なメロディーを奏でます。第一主題は、付点の付いたリズムを背負ってフルートが展開し、以後様々に発展します。
・ 第二楽章 やや沈鬱な感じのテーマが出て来ます。侘しくて厳粛と感じられるかも知れません。この単純なリズムが執拗に繰り返される中、極めて豊な和声が聞えて来ます。
・ 第三楽章 スケルツォの楽章で、早い三拍子の曲です。活気に溢れ弾力に富んだ感じのリズムが、粗野な快活さとか生の歓喜とか言われる曲を彩って進みます。
・ 第四楽章 熱狂的な感じの終曲となって居ます。放歌乱舞・粗暴・野蛮な歓喜・溌剌とした生命の燃焼、そんな風に語られる部分なのです。同じリズムが早いテンポで繰り返される内に高まる熱狂感の中で、圧倒的な終曲を迎えます。
さて、どうやら美酒にご機嫌なベートーヴェンが、その機嫌の良さを我々に分かち与えるべく作ったとも言えるこの曲ですので、これも実演を楽しんで下さるのが一番な事は言うまでも在りません。録音媒体も数多くあります。僕の個人的な思い出は、40年以上前に、コンセルト・ヘボーがヨッフムの指揮で、文化会館で行った演奏が忘れられません。指揮者・演奏者・観客の熱気が、奇跡の様に一点に集中した感じで、素晴らしい名演でした。楽隊が引き上げた後の舞台に指揮者が5回・7回と呼び出されたのも良く覚えて居ます。実演をこまめに聞いて居るとこう言う風な機会に出会う事も在るのです。