個別の演目のご紹介を、古典音楽の方はバッハとモーツアルトの協奏曲から始めました。古今の名曲を網羅的にカバーする心算も在りませんが(何年掛るか判らない程膨大な事になります)、我々に残された宝物の様な曲を、少しずつこれからも続けます。今回は、ベートーヴェンの交響曲を取り上げて見ましょう。年末でもあり、第九です。
交響曲第九番“合唱”は、長大な曲であります。演奏時間が平均で70分位であると思います。これだけ長い交響曲は、ベートーヴェン以前には在りませんでしたし、彼氏の作品の中でもこれだけです。通称の“合唱”は、曲に合唱が使われて居ますとの解説的な名前でしか在りませんで、多分後世の人が付けたのだと思われますが、世界中この名で通って居ります。曲の構成は通常の四楽章構成で、最後の楽章に四人の独唱と合唱が加わります。どの楽章も素晴らしい曲で在りまして、夫々に聞き応え十分です。
○先ず第一楽章。弱音の序奏から盛り上って行って格好の良い第一主題の提示があります。その後に、第二主題が出てきていつものソナタ形式での展開が続きます。構成感の真に確りとした楽章です。これを「現状に対する不満と苛立ち、上手く口に出ないもどかしさ」と言う解説書もあり「激動の時代を暗示し疾風怒涛の感覚を表す」とする解説書もあります。
○第二楽章。早いテンポの楽章となって居ます。ティンパニーの音が極めて効果的に使われて居ます。スケルツォと言うリズムは三拍子なのですが、この楽章は一拍子(夫々が三連音符)に追って聞く事も可能かと思います。解説は「豊麗な曲趣と光輝ある命のリズム」、片や「革命と戦争の狂騒に対する滑稽味を帯びた風刺」と、あります。
○第三楽章。穏やかなゆっくりとした楽章です。二つの主題が提示され、夫々が変奏しながら進みます。途中のホルンのソロと最後近くのラッパのファンファーレが印象を強めます。これには「洗練された気高い詩趣」、「瞑想的な祈りの音楽」と、記されて居ます。
○そして第四楽章。この楽章に声楽が入って来るのは先に述べた通りですが、それは基本的にはシラーと言う詩人の書いた詩が使われます。実はその声楽が入って来るまでに長い序奏とも言うべき管弦楽の部分が演奏されます。最初に不協和音的な響きで早く大きな音の部分が来ます。直ぐチェロとベースが何か叫びを上げる様なメロディーを弾きます。その後、管弦楽と低弦部との対話となり、前の三つの楽章を夫々否定する形が示され、その低弦部が歓喜の歌を示し、これが徐々に大きくなって全体を支配して、突如最初の不協和音的響きのパッセージが大きく鳴り、ここで先の低弦部の叫びのメロディーで独唱のバリトンが入ります「友よこの響きはやめよう」。バリトンは続けて歓喜の歌を独唱し、そのまま合唱が大きく引き取ります、と言う風に続くのです。シラーの詩は、「喜びよ、神々の火花よ、我らは喜びの聖堂に入る。そこで、人類は全て兄弟となり百万の人々が抱きあう」と謳い上げるのです。そして、独唱・重唱・合唱が折り重なり積みあがり、圧倒的な終曲部へと進みます。この部分の解説は、これ等の歌詞に引かれますので、さしたる差は在りませんでした。
実はこの曲程、録音された音源と実演の差が感じられる曲も少ないと思います。ですから、実演でお聞きになるのが第一に重要なのです。それは声楽の持つ生の音の迫力が素晴らしいからであると思います。勿論管弦楽も実演の迫力が大きいのは言う迄も在りません。我が国では、年末になるとこの第九が何十回と演奏される極めて特異な文化を持って居ります。是非、実演でお聞きになられて下さい。
また、前の三つの楽章に夫々解説からの引用を入れました。同じ曲でも、解説者により随分異なった言い方をすると思われたと思います。つまりは、何か穿った様な解説は、むしろ不要なのかも知れません。お聞きになられて、どうお感じになるかが重要なのです。そして、何回も回を重ねますと、感じ方も変って来ます。それまで聞えなかったものが聞えて来ます。こう言う事を発見して驚く事も大切な事かと思います。
実は、これだけの曲ですので、種々の逸話が在ります、それは次回とします。
“堀川”の三回目です。この段の見所や聞き所の続きをお話致しましょう。
・ 段切れに出て来る“猿回し”そのものは、三人遣いの人形では勿論無く、所謂“手人形(ハンドパペット)”を使います。手袋に顔や手を付けて衣装を着せたみたいな人形で、片手に嵌めて使いますね、あれです。この小さな人形を二体、一人で操ります。語りに合わせ、三味線に合わせ、二匹同じ動作をしたり、夫々そっぽを向いたりと、大忙しに見えます。余程タイミングの勘の良い人しか勤まらないと思いますが、実はこの人、出演者のリストには載って来ないのです。誠に可愛いお猿さんの仕種を続けますと、背後の黒衣姿の遣い手を忘れます。先年歌舞伎でこの場を見た折には、このお猿さんを、糸操り(マリオネット)の人形で演じました。あの高い舞台の天井から操るのですから、これは大変な事だと思ったものです。
・ この段の口説き(クドキ)は、大変に良く知られて居ます。「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」と始まりますが、この台詞は、文楽や歌舞伎でこの場を観た経験の無い方でもご存知の向きが多いと思われます。女性主人公が、その時の思いの丈を語り胸の中を語りと言うのがクドキで在りまして、多くの場合に筋の方向の変わり目になります。(男性の場合には、クドキとは言わずに“物語り”と言われる事が多いのです)。このお俊のクドキは、母親と相手の伝兵衛と二人の心の方向を変え、自分の思いである“大事な男に誠をたてて一緒に死にたい”と言う線へ引っ張って行きますので、重要なクドキなのです。歌舞伎では花形女形の見せ場となり、浄瑠璃では真に良い節の付いた語りとなっていまして、正に聞かせ処となって居ります。
・ この段の幕開けは、母親が近所の娘に地歌の稽古をする場面でした。この箇所は、大夫も三味線も難しい箇所の様です。つまり、素人が二人で稽古をして居ますから、当然の事乍ら、大夫や三味線方の実力とは大違いな訳です。ですから、上手くやり過ぎると嘘になり、と言って全く下手にすると聞いて居られなくなりますので、この兼ね合いが難しいらしいのです。何気無く過ぎてしまう処ですが、こんな処にも苦労が詰まって居る様です。
・ 段切れの“猿回し”に掛る前に、もう一人三味線が加わります。彼の事をツレと呼びます。その段切れの少し前に、かなり長く大夫が三味線無しで語る箇所が出て来ます。実はこの間に三味線方は、楽器の主要部品の一つである駒を替えて居るのです。この駒の種類で、出す音の性格が変ります。ですから、お俊のクドキの時の音と違った音で猿回しのくだりを弾く為に替えるのです。ここから段切り迄の10分位は、三味線の出番です。語りが入らないで、二本の三味線の合奏の部分も多くあります。“お猿はめでたや”と、大夫も勿論語りを入れますが、でも三味線が主役でしょう。これが積みあがった処に“良い女房ぢゃに”の憂いに満ちた一言が入りますと、思わず目頭が熱くなるのです。三味線が情を弾くと言う意味が真に腹に響く瞬間でもあるのです。
さて、大分堀川猿回しの為にスペースを使いました。この位にして、次に進む事にしましょう。
人気の“堀川猿回し”の段を中心に、見所や聞き所を幾つかご紹介して見ましょう。
・ 先ずこの通称“堀川”とか或いは“堀川猿回し”呼ばれる一場に、実は悪人は一人も出てきません。大概は悪人や意地悪が出てきて、話を悲劇の方へ引っ張るのですが、その悪人は前段で成敗されてしまって居ます。実はそれが為、伝兵衛はお尋ね者になってしまい、お俊は御茶屋から実家に帰されては、居るのですが。ですから、この場は登場人物が全員実に善人なのです。その市井の善人が、運命に翻弄されて、夫々が悩み、夫々が良かれと周囲に思いを馳せます。この葛藤を解きほぐすのも又善意である、これが全編を通じての主題となります。
・ 構成の面で気が付くのは、幕開けが地歌のお稽古の場面です。稽古して居るのは「鳥辺山心中」。最後が、猿回しで猿に演じさせるのが「曽根崎心中」。この皆が知って居る二つの物語を借りて来て使い、この話そのものの行方を暗示する趣向となって居ます。観客は何と無く納得して本編に入って行ける仕組みになっているのです。
・ 処でもっと具体的な主題は、今申し上げました心中なのですが、その心中も、する二人(お俊と伝兵衛)と言うよりは、むしろ心中される家族の方に、本当の主題があると言うのも注目すべき箇所でしょう。「可愛い我が子を心中に、合点して遣る親心」と言う、母親の言葉が胸に響くのです。
・ さて、その母親ですが、この一場の本当の主人公はこの母親とも言えます。我が子可愛さに一途に心中を止めようとします。これに対してお俊は「それでは女の道が立たぬ」と言います。その言葉は、一時の気紛れや酔狂からで無く、人の存在の根底から出た言葉と受け止めたが故に、先の痛切な一言があるのです。これを観客全員に納得させるのが母親の役目である時、この段の主人公は彼女だなとも思うのです。山城少掾は「忠臣蔵六段目の主人公は与市兵衛女房であり、引き窓では母親であると思って語ります」と言って居た様ですが、この段でも同様の事を考えては居なかったかな等考えます。
・ お俊の兄の与次郎は、貧しい猿回しを生業にその日暮らしをしながら一所懸命母親に孝行を尽くして居ます。この与次郎の役を、以前は、人の良い慌てものでどこか抜けて居る人物として、半分道化がかった役として上演して居た様です(チャリがかった役と文楽では言います)。そう言う役作りも自然に思えます。ですが、近年は、若干変えまして、“人の良い、情の細やかな、臆病者ではあるが朴訥な働き者”と言う風な役作りになって居ます。戦前の全盛時代に、古靭大夫や栄三の、原本を良く読むと言う努力の結果と思われます。この与次郎の役作りは、文楽のみならず歌舞伎の方でも採用されて居る演出法なのです。
実は 未だ在りますので、次回に続けます。