もう50年近く前になりますが、NHK交響楽団をフランスの指揮者であるジャン・マルティノンが振った事があります。前年の暮に突発した小澤征爾との確執で、ある種の批判の的になりましたし、楽団の中も多分騒ぎになって居たのだと思います。そんな中で言わば名誉回復の為の演奏会をと意気込んだのかも知れません。当夜のプログラムでは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が極めて瑞々しく鮮やかであったのを覚えて居りますし、第一部の終りで指揮者が恰もフェンシングの選手が相手の選手を目掛けて剣を突き出す様に指揮棒を楽隊に向けて真っ直ぐに突き出して終わったのも覚えて居ます。この演奏会のもう一曲が、本日の話題のモーツアルトのフルート協奏曲第二番であったのです。独奏は、楽団の主席奏者である吉田雅夫でした。定年をかなり残して芸大の教授に転出する同氏のお別れ演奏であったのです。実は僕はこの機嫌の良い曲を実演で聞いたのはこの時が最初でした。
モーツアルトのフルート協奏曲第二番は、物の本に依れば、1778年彼が22歳の時に作曲されたとあります。この時、彼は恋をして居りまして、相手は後年奥方になる人の姉妹であった様です。ですから曲想は自然と「晴れやかで、光輝くばかりに美しい」ものとなって居ます。深刻に人生だの孤独だのと言う観念と仲良い時には空々しく聞えるかも知れませんが、良い事があって気分が高揚して居る時、それこそ恋をして居る折などに聞けば、モーツアルトと一緒に舞い上がる様な感興に囚われるであろう事疑いなし、そんな曲です。実は、フルート協奏曲の第一番も同じ時に書かれた双子の兄弟の様な曲でして、多分C/D等には大概両方一緒に入って居ると推測されますので、序にそちらもお聞きになって下さい。若いモーツアルトの健康な人生観だの率直な自信だのが自然と聞えて来ます。また物の本に帰りますと、この二つの協奏曲は或る人の依頼で彼は書いた様ですが、相手は約束の代金を払わないと言う不平の手紙が残って居ります。長くこの理由は不明とされて来ましたが、遥か後年に至り、同じ曲で基本の調子だけが少し違うオーボエ協奏曲が見つかり、どうもこのフルートの第二番はそのオーボエ用の曲の単なる編曲であった可能性が判明しまして、作曲料不払いの原因はそれでは無いかと思われて居ます。と言う事は、同じ曲のオーボエ版もある訳で、こちらも幾つも録音が在りますので、これも序にお聞き比べをなさって見て下さい。さて、フルート協奏曲の二曲は現れて以来名曲の誉れ高く人気の曲であり続けたのですが、何故か二番の方が一般的な人気は高かったし、これは今も変わって居ないのです。オーボエ協奏曲を聴いても、面白いけどやはりフルートで聞き直したくなります。この第二番にはそんな魅力が詰まっていそうなのです。
さて、その吉田雅夫の演奏ですが、彼の奏法は独特のやや大きなビブラートと極め付きの美音のコントロールにあり、それが良く発揮される第二楽章では、息を詰めて聞いたものです。第三楽章は、指揮者の好みなのか若干早目のテンポで進んだ様な記憶があります。初めてだった事もありますが、未だに良く覚えて居るのは多分演奏も良かったのでしょう。その後何回も聞きましたが、これほど鮮明に覚えて居る演奏は実は在りません。
クラシック音楽の、個別の曲目の解説をバッハの世俗的管弦楽曲から始めました。今回はその続きで、モーツアルトの機嫌の良い協奏曲を幾つか取り上げて見ましょう。
二十代早々のモーツアルトは、親父さんに宛てた手紙の中で「もう僕は、どんな曲でも真似する事が出来る」と語って居ます。この言葉は、解釈の仕方で、大きくも小さくも解釈出来そうに思えます。“真似できる”つまり、模造品を作りうると言う意味にも解せます。そうでは無くて、当代随一の作曲家でもその人の語法を取り入れ十分に咀嚼した上で、彼独自の世界を展開する事が出来ると思ったのだと、考える事も当然に可能です。目を剥く思いなのは、そう考えたのが高々二十歳直後の若い時代のモーツアルトであった事でしょうか。
そのモーツアルトが19歳の折に、やや集中的に五曲のヴァイオリン協奏曲を書いて居ます。今回の五番はその最後の作品なのです。書かれた処が故郷のザルツブルグでしたので、「ザルツブルグ協奏曲」等とも呼ばれます。モーツアルトはヴァイオリンも上手でしたし、ピアノの名手でも在りました。後年、ウィーンで独立した音楽家としての道を歩み始める折には、ピアノ関連の曲が、予約演奏会や家庭教師の活動を支えた形になりますが、ヴァイオリン曲は、例えば協奏曲ではこの19歳の折の五曲の他には、散発的に、それも若い頃の作品として残るだけで、十分に音楽的に成熟した後の協奏曲は残して居らない様です。
そのザルツブルグ協奏曲の中では、一番の傑作とされ、多分演奏会数も一番多いのが今回の五番かと思われます。曲想自体は、実に伸びやかに機嫌良く且健康的な雰囲気を醸して居ます。後の時代(つまりパガニーニ以後)の様に、独奏に超絶的な技巧を要求しませんし、多分純粋に技術面から言えばさして難しく無い曲なのでしょう。でも、それだけにヴァイオリン自体の音色が決定的な重要性を帯びます。豊に流れる音で無いと演奏にならないのです。美音を追求した神経質な音は全く向きません。と言う事は、演奏家がある程度以上、楽天的で人生肯定的な考えを持って居ないと、聞いて居る僕達は楽しめないかも知れません。
第一楽章は、比較的長いオーケストラの合奏があって、やおら独奏が出て来ます。このオケの部分のヴァイオリンのパートを一緒に弾く独奏者に出会った事が何回か在ります。指の練習かしら位に考えて居ましたが、若しかすると自分の音と楽隊の音の混ざり具合を確かめて居たのかも知れませんし、もっと考えれば、直前の総練習(ゲネプロ)の時に、指揮者と微妙に食い違う点を感じて、早手回しに指揮者に警告を出していたのかも知れません。まぁ、そんな事はどうでも宜しいのですが、そんな場面に出くわしますと色々考えます。
第三楽章は、メヌエットでして、この楽章の中間部(トリオと呼びます)に、当時流行って居たトルコ風な曲想が聞えて来ます。それで、この五番を「トルコ風」と呼ぶ人も居ります。このトリオの部分に、唱歌の「黄金虫は金持ちだ」の「金蔵建てた蔵建てた」の処に良く似たメロディーが出て来ます。何て事は無いのですが、何処か心が和みます。
近年はこのモーツアルトにも古楽器の波が押し寄せ、この曲も古楽器で演奏する機会も増えて居る様ですが、僕の個人的な感じでは、ザルツブルグ協奏曲の後半の三曲(それが良く取り上げられる曲なのです)は、近代楽器で豊に明るく潤いを持った音色で演奏されるのが良いと考えて居ます。
さて、前回の続きです。
白河法皇は頻繁に激しい頭痛を起こすのでしたが、ある夜熊野権現が夢に現れ、思わぬ答を出します。即ち、白河法皇は、その昔の蓮華王坊の生まれ替わりで、元の王坊の髑髏が、紀州の山の中の柳の巨木の梢にある。この髑髏を回収して丁寧に葬り、且、その柳の木を棟木として、三十三間堂を建立して、そこに収めれば、病は完治しようと言う処方箋でした。
一方、やっと夫婦になった平太郎とお柳は、平和に暮らして数年、二人の間にはみどり丸と言う男の子も生まれ、元気に育って居ます。そんな折に先の決定が、二人と全く関係の無い世界で、決められてしまうのです。そして、それはどんどん進み、本当に切り倒され掛ります。こうなるとお柳も生きては居られないので、平太郎に本性を明かし、隠し持った蓮華王坊の髑髏を渡して、出世の糸口にして欲しいと口説き(クドキ)、姿を消します。平太郎は、みどり丸と現場に行こうとします。ここへ悪者の和田某が現れ、平太郎の母親と虐め、髑髏の言われを聞き出そうとします。危うい処で平太郎が戻り、和田を討ちますが、この男は捜して居た敵でもあったのです。平太郎は今度こそ現場に急ぎます。何とすでに柳は切り倒された後でしたが、この巨木は誰がどう引っ張っても動かないのです。それを見た平太郎が木遣音頭を唄い、みどり丸が綱を引くと、少しずつ動いて、都の方へ運ばれて行くのでした。
粗筋は、この様な話で在りまして、文楽では今回ご紹介した部分、即ち「平太郎住家より木遣音頭の段」が、良く上演されます。これに前回お話を致しました「鷹狩りの段」が端場的に付く事もあります。見て参りました通り、相手が人間ならぬ木の精である点が大変に面白い処でありまして、人間は全て木から生れたとする北欧神話や、トールキンの「指環物語」に出て来る魅力的な登場“人”物であるエントを思い出される方もあろうかと思います。従いまして、見処・聞き処は幾つもありますが、ざっと見て見ますと。
・ 木遣音頭 段切れに唄われる部分で「無惨なるかな稚き者は、母の柳を都へ送る、・・」と始まります。浄瑠璃は、周りの多くの音曲の良い処をどんどん吸収してその節回しや語り口を練り上げて来ました。ここの処は、木遣音頭と言う言わば労働歌の節回しを取り入れて、一見賑やかに、でも一見そうだからこそ哀感が募ると言う形で取り入れて在るのです。名曲の誉れ高い部分なのです。
・ クドキ 10年5月17日のVol.159でも取り上げて居りますが、女性の登場人物が思いの丈を語る事を「クドキ(口説き)」と言います。このクドキは作者が苦労を重ね、工夫を凝らす処なのです。お柳のクドキは、平太郎がうたた寝をして居る処へ「面と向っては恥ずかしい」といいながら夢見心地の平太郎に心の全てを語ります。人でなく柳の精であるから言える痛切な響きも感じられ、クドキの良いお手本なのです。
・ 鳥目 実は平太郎は、夜になると視力が落ちる鳥目なのです。今でしたら微量栄養素不足とかで、簡単に直せるでしょうが、お話の当時はそうは行きませんでした。「負うた子に教えられ」夜道を急ぐ姿が胸を打ちます。
・ 白河法皇 記憶に間違い無くば、吉野詣でを一番多くやった御仁では無かったかと思います。確か30回近くお参りをした筈です。そんな事実も、このお話の背景になって居るのかも知れません。
・ 蓮華王坊 これは実在の人物乃至モデルが居る訳では無さそうです。実は三十三間堂は、本名を蓮華王院と言うらしく作者は此処から逆算したものと思われます。それにしても、修験者が天皇に生まれ変わって居てと言う話は、今の感覚からすると驚かされますね。
いきなり異類婚譚が二つ続きました。この二つとも、生身の役者が演じるよりは人形に芝居をして貰う方が抵抗無く見て楽しめる様な気がします。人形劇なのだと言う安心と言うか、現実とは少し距離がある世界の中での方が、納得性が高まる良い例では無いかと思っています。