古典派に続く時代は、ロマン派の時代と呼ばれます。年代的には、19世紀の後ろの3/4、つまりベートーヴェン以後19世紀の終りまでと一応して置きます。と言うのも、神経質な音楽評論家達の時代区分を見ますと、夫々の人が夫々の考え方で分けて居るので、これ等を考慮に入れて、学術的に正確を期しますと、却って混乱するからです。社会は、この時代の直ぐ前に起きたフランス革命の影響の下に在りました。つまり、貴族や王族更には世俗的権力を持った宗教家達の支配した時代に代わりまして、ブルジョア階級と呼ばれる市民階級が徐々に力を付けて来ます。それに連れて、資本主義も大きな展開を示します。産業革命が起こるのもこの時代に属して居りました。自由と平等が大きな標語として喧伝されます。
音楽も、王族や大貴族・領主司祭等のお館を出まして、一般人でも入れる大きなホールやオペラ劇場が設立されます。楽器の進歩改善は依然として大きく発展しますが、バロック時代に始まったヴァイオリン属、古典派の時代に進展を見せたピアノ等の改良に継ぎ、特筆すべきは管楽器群の改善です。木管・金管を問わず、例えば半音の出し方や音質の安定、更には良い音を大きな音として出せる工夫等が相次ぎます。つまり、管弦楽で語る音の言葉が大変に豊富になったと言えるでしょう。この様な時代を背景として生れて来たのがロマン派の音楽と言う事になります。
ロマン派の音楽の主張は、理性と感情の合理的調和の中に普遍的な理想を求めようとした古典派に対して、言わば反古典主義として、情緒の中に真実を見つめようととするかの様でして、個性と独創性が主たる動機となり、これが時に民族主義的な展開を見せたりする、一言で言えばその様なものと考えられます。ですから、モーツアルトの時に言いました「音楽は音で出来て居る」と言う事を信じた作曲家達に比して、音楽の中に“言葉”が大量に流れ込む曲を作ったのがロマン派の諸氏なのです。その意味では例えばベートーヴェンの第九交響曲以下の諸作品にもこの動きは感じ取られ、彼はロマン派の先駆けと言う事も出来ましょう。その言葉も情緒に限りませんで、思想であったり或いは詩興であったりと多様を極めます。反面音楽そのものは、古典派の人達の作り上げた調和が崩され、形式に囚われないと言うか形式を無視した作曲がなされます。その結果、各曲がどちらかと言えば短めな曲が極めて多いのも、ロマン派の特徴と考えられます。以下、ロマン派の作曲家達を少しずつ見て見ましょう。
・ ウェーバー(1786-1826) ドイツ・ロマン主義の初期の人で、彼の「魔弾の射手」はドイツ・ロマン主義歌劇の最初の作品とされ今日でも良く上演されます。ピアノ曲「舞踏への勧誘」は、素敵な小品です。モーツアルトの奥さんの従兄弟に当たる人でも在りました。
・ シューベルト(1797-1828) 生涯に600曲もの歌曲を書いた天才。言葉が音楽に入り込んだ典型の人とも言えます。ピアノ曲や室内楽・交響曲にも傑作を多く残して居り、これ等の作品全てに言える事は、実に綺麗なメロディーが湧くように浮んだ人なのだろうと思わせる事です。そのメロディーの美しさに惹かれてファンの多い作曲家であります。
・ メンデレスゾーン(1809-1847)5曲の交響曲には夫々標題が付けられており、何を書きたかったかを語って居ます。“イタリア”“スコットランド”等は極めて人気が高い曲です。ヴァイオリン協奏曲がこれも大変に好まれています。ピアノ曲「無言歌集」は、歌詞の無い歌と言うピアノ曲でロマン派そのものみたいな曲とも言えます。指揮者としても多くの実績を残しますが特筆すべきは、バッハの“マタイ受難曲”を復活させた事でしょうか。
・ シューマン(1810-1856)作曲家であり評論家でもありました。交響曲が4曲あり演奏会の常連でもあります。歌曲やピアノ曲にも名曲の多い人です。奥さんが名ピアニストのクララで、共作とも言うべきピアノ協奏曲は名品です。評論家としては、例えばブラームスを世に出した人でもありました。
・ ベルリオーズ(1803-1869)フランスのロマン派の作曲家。オペラ・宗教曲・声楽曲等多くの作品を残しています。新しい管弦楽法を編み出し、色彩感に溢れる曲を書きました。“幻想交響曲”や“レクイエム”にその典型が伺えます。
まだまだ居ますので、この項続きます。
このコラムの最初の方で、古典とは「模範となる第一級のもの、完璧で理想的なもの」の意味を持ちますと書きました。ですから、大変に数多くのジャンルに夫々素敵な展開を見せて居る音楽の、ある特定なものを“古典音楽”と呼び習わす訳で、これは西欧でも「クラシック音楽」と呼ばれて居る事からも、言わば世界共通の認識であると思います(我が国の場合は用語も含めて輸入ですので、同じであるのは当然では在りますが)。その古典音楽の歴史の中で、本日の話題は“古典派の音楽”で在りまして、何と此処には古典なる言葉が二重に使われて居ます。古典の中の典型的な古典とでも言えましょうか。
古典派の音楽が現れたのは、1750年(前回のバロック時代の終りである大バッハの亡くなった年)辺りから、19世紀の初頭、1920年位迄を指します。ヨーロッパに於きましてはこの期間の中でフランス革命が起きます。アメリカの独立もこの時代ですが、文化史的にはさして大きな事件では在りません。つまり、バロック時代を覆っていた王政・貴族中心の世界に対して、市民階級の発言権が少しずつ増して来る時代が背景にあります。思想史的には啓蒙主義の時代と言えます。ですから音楽の演奏の場も、宮廷中心から、公開ホールでの演奏会が徐々に増えて来ます。又、出版の自由化が進んで、楽譜の出版事業が成立し、その為に音楽の裾野が広がった時代とも言えます。
楽器の発展の方へ目を向けますと、この時代に大きな進歩があったのが、ピアノ属の楽器です。ピアノの表現力が格段に広がります。一番の特色は、強弱の演出の表現の拡大が大きな発展と言えましょうか。ここから、音楽全体に於いても、強弱の対比のみならず、徐々に大きく(小さく)なる進行等が多用される様になります。そして、啓蒙主義を受けるが如く、分かり易い構成の分かり易い曲造りが進みます。バロックの特徴であった、通奏低音と複旋律(ポリフォニー)が姿を消し、単旋律(ホモフォニー)の音楽が、大半を占めるようになります。曲の形式としては、暫く前にやや詳しく申しました、ソナタ形式の確立が時代の特徴となります。
その古典派と後世呼ばれる様になった時代の作曲家は、実は三人の天才に依って代表されます。即ち、ハイドンとモーツアルト及びベートーヴェンの三人であります。古典音楽中の古典音楽とは、この三人の作った音楽を指すのです。
・ ハイドン(1732-1809)大貴族の宮廷楽長を長く勤めますから、一昔前の作曲家とその意味では同じですが、創った曲はバロックの音楽とは全く異なって居りました。交響曲の父等とも呼ばれます。後期の交響曲や弦楽四重奏曲には名曲が多く、現在でも演奏機会の多い作曲家です。その伸びやかで明るい音楽は、聴く度に、体が和んで来るのを感じます。
・ モーツアルト(1756-1791)多分人類史上の最大の奇跡的な天才と言えましょう。最初は領主司教の音楽家をして居ますが、後年その保護を離れ自由な音楽家として生きます。オペラから器楽曲迄、金持ち達の食事の伴奏音楽を頼まれて書いた小品に至る迄、名品以外の曲を残さなかった人でもあります。多分現在我が国で最も演奏機会の多いのが、この人の曲だと思います。音楽は音で成り立って居ると言う命題を生きた最後の天才とも言えます。
・ ベートーヴェン(1770-1827)古典派最後の天才でもありこの後のロマン主義の音楽を書き始めた人でも在りました。貴族の援助を受けては居ますが、基本的には自由に音楽家人生を歩んだ人と言えます。この人も多くのジャンルで仕事をして居ます。交響曲・協奏曲・ピアノ曲・弦楽四重奏曲等どれも名曲でして、何十回聴いても毎回新しい感興を興して呉れます。音楽に“言葉”乃至“思想”を入れ始めた最初の人とも言えます。
先のピアノの進化とその応用は、モーツアルトとベートーヴェンの手に依る曲を聞きますと、明らかに感得出来ます。
この“古典中の古典”を耳に溜めて置きますと、他の曲を聞くときの自分の座標軸の原点が明らかになる、そんな功徳も期待出来そうです。
この辺で少し歴史的な俯瞰をして見ましょうか。
もう半世紀も前の話になりますが、1960年代に我が国では“バロック・ブーム”と呼ばれた動きが在りました。その切っ掛けを作ったのは、イ・ムジチと言うイタリアのバロック楽団の演奏したヴィヴァルディの「四季」と言うレコードだったのです。このバロック見直しの動きは、多分西欧でも一般の事であったのだと思っています。戦後の混乱から回復するに連れて、言わば初心に帰ろうと言う気分の一つの表れであったかなと思います。それにしても我が国に於ける「四季」の熱狂的な受け入れられ方は面白い現象だったと思います。あの組曲にはソネットと呼ばれる詩が各楽章に付いていまして、自然に向き合う日本人の心の動きにどこか通じるものがあったのであろうと思います。従いまして、その後暫くは通常の音楽ファンに取ってバロックとは、ヴィヴァルディであり「四季」であると言った理解が続きます。勿論そんな事は無い訳です。
バロック音楽とは、1600年から1750年位迄の期間に作られた音楽を指します。日本では、関が原から人形浄瑠璃の三大名作が作られた時代となりましょうか、西洋音楽史に於いては、オペラと呼ばれるものの成立からバッハの死に至る迄の期間になります。当時の社会情勢は、絶対王政の下でしたから、音楽家の活躍の場面は、宮廷・教会・王の作った劇場等が主でしたし、主たるスポンサーもこれ等の場を持って居る王や貴族と大教会の司教達と言う事になります。又楽器製作の面から見てみますと、ヴァイオリン属の楽器が大発展を遂げた時代となります。北イタリアのクレモナのヴァイオリン工匠達が作った銘器の数々は、その後手を加え補修に勤めながら、今に至る迄それを越える楽器は造られて居ないと言う伝説の中で、妙音を紡ぎだし続けて居ります。
バロックのやや思想的な背景としては、それ以前のルネッサンスの時代の精妙に整った音楽への反逆として、より自由に人の“情念”を描き出そうとしたとも理解されます。その“情念”は、言わばやや類型化された表現として、喜びや嘆きを出来るだけ効果的に音にしようとします。「四季」のソネットの音形化と言えば分り易いかしら。音楽技法的には、通奏低音が大きな特徴になります。この確りとした低音部の上に、自由な高音部が載ります。その高音部は、主旋律が複数出て来る所謂ポリフォニーの形で書かれます。この通奏低音とポリフォニーがバロック音楽の特徴となりまして、後の音楽とは随分違って聞こえます。音楽の種類(ジャンル)としましては、声楽系には、オペラ・カンタータ・オラトリオ(共に聖譚曲と呼ばれる教会音楽)等が挙げられます。器楽曲系には、トリオ・ソナタ、協奏曲・組曲等、多様な楽曲が作られます。
作曲家としましては、イタリアからはヴィヴァルディの他コレルリ・トレルリ等々が輩出します。ドイツでは、テレマン・ヘンデル・バッハ等ですが、中で大きな名前は何と言っても大バッハと言う事になりましょう。これ等以外にも実に多くの作曲家達が多くの曲を残して居ります。プログラムの中に聞きなれない名前が在りましたら、念の為調べてご覧になる事です。予想より多くの機会に取り上げられて居ります。
バロック楽団と言いますと、弦楽器を中心にチェンバロを加えた十数人の小さなグループが主となります。これに必要に応じて、管楽器や打楽器が入り、声楽が加わりして、演奏が展開されます。最近は、既に申し上げました古楽器に依る演奏団体の花盛りでして、彼らが主として演奏すべきはこのバロックの音楽と言う事になります。同じ曲を、近代楽器のグループと古楽器のグループで聞き比べるのは実に興味深いものがあります。
演奏会に行かれる折、曲目の中にバロックの物が無いかどうか、そしてその演奏のグループは古楽器派が否か、そんな事を調べるのも事前の楽しみの一つなのです。
三人吉三の大川端の場で、まんまと百両を懐にしたお嬢吉三が、名調子の長台詞に掛かります「月も朧に白魚の、篝もかすむ春の宵、冷てぇ風もほろ酔いに・・・」。この後、「手に入る百両」の処で、上手舞台奥から声が聞こえます「おん厄祓いましょう、厄落し」。これを受けて「ほんに今夜は節分か・・・」と後半の台詞が続きます。最初にこれを聞いた時には、この“厄払い”とは、笹竹でも持って歩いて家々のススを払うのかな等考えたものです。イヤホン・ガイドが「節分とは旧暦の大晦日の事です」と教えて呉れましたので、随分と押し詰まってスス払いをするな等見当違いも甚だしい感想も持ちました。
さて、その“厄払い”ですが、今はもう無くなって仕舞いましたし、何時頃迄あったのか判然とは知らないのですが、少なくとも黙阿弥(三人吉三の作者)の時代である幕末から明治初期に掛けては居たのでしょう、門毎に小銭を貰いながら厄払いの口上を語って歩く商売であった様です。調子の良い七五調の長台詞を、恰も早口言葉を言うが如くに、やや甲高い声で言い立てたのだそうです。文句は漢語や漢字言葉も多用しまして、何だか判らないけどありがたそうな文句に、その年の社会事象等を織り込んで、何でもかんでも悪い奴はこの家から出てゆけといった内容だっとのだと思って居ます。言霊の国らしい商売とも言えますし、これを受けて正月には漫才が「あーら、目出度いな、目出度いな」と門付けをする仕組みになるのでしょう。
この厄落しの風習を借りまして、その調子をそのまま歌舞伎の舞台に持ち込んだのが、本日のテーマの「連ね(つらね)」と言う事になります。歌舞伎の場合、新年は11月でして、この月にこれから一年の間その劇場に出演する役者全員を舞台に載せて紹介する、これが「顔見世」の興行で在りました。その顔見世に欠かせない出し物として「暫」が在ります。典型的な荒事の化粧を施した主人公が全く実用的で無い荒唐無稽な装束で「暫く、暫く」と言って花道を出て来ます。そして花道の七・三で止まって、自己紹介の長台詞を言います。これが“連ね”の典型である「暫の連ね」になります。昔は、毎年主人公の役者が新しい連ねを考えて喋った様ですが、明治期の九代目の団十郎が典型例を定めて以後はそれに従って居ます。又、団十郎系はこの主人公を鎌倉権五郎と言い、他の劇場では他の名前(大館左馬五郎とか篠塚伊賀守等)で造られた様です。そしてこの自己紹介の連ねの本当の性格はと言えば、先に述べた厄払いそのものでして、劇場からもそしてご覧のお客様からも、悪い事は去って良い運勢が来ますようにとの、言わば祝詞な訳です。歌舞伎の淵源の何処かに祝祭的な伝統がある訳でして、観客は喜んでこの連ねを楽しんだ様です。勿論、厄払いの習慣も生きて居たでしょうから、今の我々よりはずっと身近に受け止められたのでもあります。
この連ねは、何も顔見世の暫に限った事でもあるまいと言うのでしょうか、他の演目にも顔を出す様になります。「助六」では、やっと出て来た助六が本舞台に掛かった処で自己紹介の連ねを喋ります、中で敵役の意休を散々こき下ろします。「ういろう売り」では、薬の効用を述べながら中に早口言葉を挟んで言い立てます。「白浪五人男」では、勢揃いをした五名が、夫々に自己紹介の連ねを言います。役の性格を良く心得た連ねの台詞回しになって居て、興味の尽きない場面です。
連ねの台詞回しの特徴は、やや早口である事(少なくともそう聞こえる事)、若干甲高い声を使う事、途中で息継ぎの為に台詞を切らない事、所謂言いたての技法で喋る事、そんな事でしょうか。
その他にも連ねは出てきましょう、今日は出て来るかな等思いながらご覧になると一層興も湧こうと言うものです。
皆様、明けましておめでとう御座います。本年も相変わりませず、種々の古典舞台芸術に関するあれこれを書いて参ろうかと思って居ります。本年は、個別の作品の魅力や見所・聞き所等に付いても筆を伸ばそうかと考えています。宜しくお付き合いの程をお願い申し上げます。
さて、本年の第一回目は、歌舞伎のやや特殊な工夫である「他所事(よそごと)浄瑠璃」のお話を致しましょう。
歌舞伎に伴奏の音曲が使われそれがえも言えぬ効果を齎すとは、既に書きましたし、その音曲の種類としては、第一に長唄であり、次いで竹本(義太夫)・常盤津・清元等があるともお話を致しました。(07年10月11日付けのVol.32 「竹本」から、同年11月1日付けのVol.35 「常盤津」迄をご参照下さい)。今回のお話はその内では、Vol.34 の「清元」に関するお話です。
これらの音曲の中で、浄瑠璃系のものはそもそもの性格から、物語を語るのが得意なのです。従い通例は、当然に目の前に演じられつつある物語の展開を語る訳です。竹本(義太夫)はその典型な訳です。台詞の処は役者が喋るとしても、お話の設定や雰囲気を齎す“置き”の部分とか、台詞と台詞の間の説明や喋って居る人の気持をお客に伝える役目等がこの伴奏としての音曲に課せられた役目になります。
清元が使われる場合も全く同様でありまして、例えば忠臣蔵の「お軽勘平の道行」だの千本桜の「吉野山」のくだりだのでは、舞台上の“山台”に出張った清元連中が物語そのものを語って行きます。その語り口や節付けの効果として、大変に情緒豊な雰囲気を醸して行くのです。これらの場面は踊りの場として出来上がって居る事が多く、観て居る方は文句は二の次にして、清元の作り上げる気分と舞台の上の役者の踊りを堪能する事になります。この清元の持つ力を知って少し違う使い方を始めたのが黙阿弥でして、それが今日の本題の「他所事浄瑠璃」なのです。
清元が印象的な名場面に、十六夜清心の「大川端百本杭の場」や、三千歳直侍の「大口屋寮の場」が在ります。両方共清元が使われて居まして、片や心中の場ですし、片やこれっきり会えない逢引の場でして、纏綿たる情緒をいやが上にも高めて行きます。それが観ていて何とも切なくて、思わず引き込まれる事になります。処で、これらの場面で語る清元は、実は目の前の物語そのものを語っては居りません。よく注意をしてますと、通り掛かりの人だの、部屋の係りの女中だのが「今日もお隣では清元のお稽古が始まるらしい」等の伏線を張ります。時にはこの台詞の中に「何でも今日は名人の志寿太夫さんがお見えになるとか」等、言わば楽屋落ち的な事を紹介する場合もあります。そして、舞台の上の展開が盛り上がりの山場に向う辺りで、この“お隣の清元のお稽古”が始まるのです。ですから語る文句は舞台の上とは無関係なもの(実はこの両方共黙阿弥の書いた文句)を、語るのです。勿論舞台の芝居とは直接に関係は無くとも、気分的にはその雰囲気を良く伝える文句を語るのです。観て居る観客は、先に申しました通り、文句は二の次にして、その伝えて呉れる情緒を楽しめば良い訳で、黙阿弥もこの効果が、清元には大きいと知っての工夫であると思われます。つまり近所で行われている清元がその場に流れて来まして、その浄瑠璃が造る雰囲気を有り難く頂戴して、こちらはこちらの芝居を展開する事になります。ですから「他所事」となる訳です。
これも歌舞伎に独特な工夫かなと思います。
最近では近所のピアノの練習の音が漏れてそれが殺伐とした事件の原因になる事も珍しく無いのですが、この「他所事浄瑠璃」的な受け止め方は出来ないものかな等思ったりもします。