丸谷才一の俳句に、「討入りや いろはにほまで雪の中」と言うのが在ります。詞書に「五列目で芝居を見て」とあっても、今や直ぐにピンと来る人は少なくなって居ると思います。その理由は、そんなに前の事では無いと記憶しておりますが、歌舞伎座が席の列の表示方法を変えて仕舞ったからです。それまでは、前から「いろはにほ・・・・ 」と付いて居たのです。それが、「12345・・・ 」と変わって仕舞ったのです。つまりこの句は、忠臣蔵を見に行って五列目で見たのでしょう(昔流で言えば、“ほ”の席です)。11段目の討入りは雪の中の芝居ですね、舞台上に霏々と雪が降って来ます。それが五列目迄届いて、五列目も雪の中の様であったと言う句なのですね。序に言えば、大分前に歌舞伎座の良い席として「とちり」の席と言い習わして居る事をお話しましたが、これも昔の列の呼び方で「とちり」の辺り(つまり前から7~9列位)が良い席とされて来たと言う話だったのです。何故長々とこんなお話から始めたかと言うと、実はこの雪を降らせるのも大道具方のお役目なのです。
先に幕の開け閉めも大道具方の仕事ですと言いました。その苦労話の中に、空調の関係があります。夏に冷房が入って居ると、若干の風圧が客席側から舞台に向って吹くらしく、暖房の時はこれが逆になって、舞台から客席に向って風が動くらしいのです。それで、幕をピンとさせて置くのに苦労があると言う話を聞いた覚えがありますが、多分その関係で、雪が客席に向って流れ出るのでしょう。あの11段目は芝居としてはたいした事は無くて、思いっきり雪でも降らせようか見たいな場面では在りますが、その場面を覚えて居る人には、ははんと納得の行く俳句です。
その雪ですが、一つ一つは小さな紙ですが夫々真四角に切って在ります。これも以前(これはずっと以前の多分戦前)は、正三角に刻んだものの様です。その方が何故だかチラチラと降る風情が出たらしいのですね。いずれ何かの廃材利用なのでしょうが、その廃材が出なくなったのか、刻む手間が掛り過ぎるからなのか、今は四角を使う様です。役者さんに依っては、この紙の大きさを二・三種類違うのを混ぜて使って欲しいと言う人もおるとかで、雪一つにも幾つもの薀蓄が在りそうです。雪が大道具なら、当然に花吹雪の桜の花びらを降らせるのも大道具さん達です。「金閣寺」の雪姫は降り積もった桜の花びらを使って足でネズミの姿を描く事になっていますから、其れだけの量の花びらが足元にある様に、物凄い降り方をします。
華やかな廓の春の風情を出すべく、舞台の上から満開の桜の枝をずらっと並べる事があります。これを釣り枝と呼びます。桜の釣り枝は、真っ直ぐに枝垂れさせますが、梅は紅白の枝を交差する形で釣ります。これも実に歌舞伎らしい雰囲気をかもし出す良い工夫だと思いますが、これも当然に大道具方のお役目なのです。桜で思い出しましたが、関の扉の舞台には、真ん中に桜の巨木が立って居ます。小町桜と名があり中から桜の精が出てきます。この桜の精は、ある拍子に桜の小枝を幹からとって踊ります。さて、この巨木は当然に大道具さんの仕事ですが、取る枝は小道具さんの仕事の範疇なのだそうです。これはこれで又面白い仕切りだと思います。
大道具のお話、今回は雪と桜だけになって仕舞いました。未だ幾つも面白いお話がありそうです。そう言えば、先の丸谷才一の句を見た勘九郎(当時)が、「この場面は舞台から見ても、こう見える」と感想を述べた由で、丸谷の視点の確かさが感じられますね。
前回、ご意見やコメントの書き込みに付いて、ご説明しながらお誘いを致しました。その折、はっきりとは書かなかったのですけど、実はそのコメントは、最新の記事のみならず、既にこのコラムに掲載されて居るどの記事に関してのコメントでも結構なのです。これまでに載せた120回位のどの記事に関してでも、当該の記事の後に作られて居るコメントを送る為のボックスから送って下されば宜しいのです。コメントを頂ければ、その旨(つまりどの記事に付いてどんなコメントが寄せられたかと言う事)が僕の処に来る事になって居ます。頂いたコメントやご意見にはなるだけお返事を書く積もりです。また、第何回の記事に関してコメントの遣り取りがありまたしたと言うご案内も致そうかと考えて居ります。宜しくお願い致します。
さて、今回は歌舞伎の大道具の二回目です。
歌舞伎の舞台を見て居りますと、独特の濃紺の筒袖にたっつけ袴を着けた大道具方が、折り目節目に舞台に出てきましていろいろな事をして居ます。通例二十数人の大道具方が活躍して居ると言う話です。多くの場合は舞台上の大道具即ち舞台装置関係の仕事をして居るらしく見えますが、中にはやや特殊な任務の人も居そうです。その一つが、幕引きの仕事です。
暫く前に「幕」と言う記事で、幕引きは大道具方の仕事ですと書きました。でも何故、大道具方の仕事なのでしょうか。これは、舞台装置の発展の歴史を見ますと判ります。そもそも当初は舞台装置も無く、幕も無い形で、役者がやおら出てきて踊りを舞ったり寸劇をしたりしたのでしょう。この形態は今でも能舞台にそのまま窺う事が出来ます。その内に、せめて昼夜の別が判る様にしようと言う事になったのでしょう。黒い幕と薄水色の幕を用意して、舞台の後ろに下げ、黒幕が下りて居る時は夜、水色(これを舞台では浅黄色と呼びます)の浅黄幕が下りて居れば昼としたのです。この幕の使い方の約束は、今の舞台でも生きて居り、例えば忠臣蔵五段目(山崎街道)では、後ろに一面の黒幕が下りていて、設えは松の木が一本と稲村が一つと言う極めて簡素な舞台設営となっていますが、あの黒幕から夜である事が判る事になって居ます。
その内にもう少し具体的に雰囲気を造りだそうと言う事で、前回書きました「定式大道具」が工夫され、この舞台装置を先ずは観客の目から隠す為に、更には舞台転換の大操作も隠すと言う事から、舞台前面に幕が下ろされる様になったのです。ですから、その当初から幕を開けたり閉めたりの役目は大道具方の持分であったのでしょう。そう言えば、定式幕が引かれても中に浅黄幕が掛かって居るケースもありますが、この浅黄幕を“切って落とす”のも、彼ら大道具方の仕事になって居ます。
さて、縦に下げるのが幕だとしますと、平面に広げるのは各種の“布”と言う事になります。前回お話しました舞台の奥にある一段高い部分を「二重」と呼びますが、その前に広がる一段低い部分を「平舞台」と言います。この平舞台は実に都合良く使われます。つまり、室外になったり室内になったりが自由自在なのです。この部分が室外で土が見える場合には、「地がすり」と呼ばれる布を敷く事があります。雪の場面ですと「雪布」を敷きます、海を表す為には「浪布」を敷きます。反面、室内の場合には「薄べり」が敷かれて居る筈です。廻り舞台が廻り始めますと、この各種の布や薄べりが、回る盆の上にまくられて載せられます。何とも歌舞伎らしい雰囲気が漂います。逆に、室外の場面が廻って今度は室内に変わる時には、新しく薄べりを敷きます。大道具方が、巻き込んだ薄べりを構えてポーンと放りますと、真っ直ぐにするすると伸びて拡がります。鮮やかだと大道具さんに拍手が入ります。
時には、舞台を印象的に作り上げて居る大道具方の人々にも、注目して上げて頂きたいと思います。
皆様、日頃はこの「古典芸能入門」のコーナーをお読み頂きまして、真に有難う存じます。厚く御礼申し上げる次第で御座います。
さて、いよいよ関東地域も梅雨入りの宣言が出されました。これから暫くは鬱陶しい日々が続きます。こんな季節は、若しお時間が許すなら、伝統の古典に親しむ良い機会かも知れません。お手持ちのオーディオ関係の機器を駆使しまして、気になって居る演目のソフトを、図書館やレンタル屋で仕込んで来て、ゆっくりとお楽しみになられては如何でしょうか。クラシック音楽の器楽曲や声楽曲或いはオペラに限らず、今や歌舞伎でも文楽でも落語でも、実に数多くのソフトが出て居ります。例えば、ショパンの夜想曲(ノクターン)を何人かの演奏家のもので聞き比べて見るとか、歌舞伎と文楽で同じ演目を見比べて見るとか、興味の尽きない時間の使い方が出来そうに思えます。
さて、本年(09年)の3月5日に更新致しましたVol.105にて、「今後の予定と計画」と題しまして、その後の記事の更新に関しての方針をお伝え致しました。記事の更新はその折にお伝え致しました方針に沿いまして、これまでお話を致して参りました範囲の話題を、何か一つに(例えばオペラ)に集中する事はしないで、アチコチに飛びながら、何とか面白い記事をと思いつつ更新をして居ります。
そのVol.105の中で、もう一つ触れた事柄が在りました。それは、このコーナーの“ブログ”化のお話でした。このコラムのブログ化に取って避けて通れない問題が、所謂迷惑メールの処理であります。その為、コラムの見てくれの体裁はブログの形をしながら、皆様からの投稿はお載せ出来ない状況に在りました。この度、この問題に関する技術的な対応がどうやら纏まりましたので、このコーナーをフルに“ブログ”する事と致しました。つまり、読者の皆さんからのご意見やコメントを掲載し、それらのご意見に対してお返事も書くと言う、言わば双方向の意見交換の出来る場として行こうと思います。ご意見等是非お寄せ頂きたく宜しくお願い申し上げます。
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皆様と具体的なお話を重ねながら、このコラムを充実したものと致したく、実は大変に楽しみにして居ります。
暫く前に同じ題で書きました(‘07年11月15日の更新で、Vol.37)。その時の対象は、文楽の義太夫で在りました。今回は同じ題で、クラシック音楽に関してのお話をして見ようかと思います。
第九が終曲に向かって進む、合唱が終わり、フルオーケストラがテンポをいよいよ速めながら盛り上がって行って、ピッコロが下から上への音形を吹き上げ、ドン・ドンとアクセントを付けて全曲の完了となる。一瞬の後、館内は掛け声と拍手の嵐となる。僕はここで、詰めていた息を吐いて大きく深呼吸するのが常である。この時いつも思うのであるが、一体何時から息を詰めていたのかしら。実は終わってみるともう判らない、でも終曲の瞬間迄幾許かは息を止めていた事は確かなのである。これは何も第九の最後に限った訳では無くむしろ殆んどの曲の最後には僕は息を詰めて聞いて居るらしい。拍手と共に洩らす深呼吸は良く覚えて居るからである。
この聞き処で息を詰めるのは何も終曲の部分に限らない。曲の冒頭に聞き逃したくないフレーズが在れば、その部分が終わる迄息を止めるし、途中のクライマックスの時も多くの場合息を詰めている。だから、これ等の部分が過ぎると、一人でほっと小さくため息を漏らすのである。ベートーヴェンの曲は、出来上がりが極めて論理的と言いたくなる風に出来ている(と、僕は思う)。こちらの呼吸のタイミングを計った様に、曲は進んでくれる。だから感興に任せて、聞かせ処で息を調節するのも決して難しくは無い。聞き手の生理状態を十分に心得た(様な)曲作りに思える。それは、曲の進行に合わせた息遣いをしていると、時々ベートーヴェンに強制された呼吸をしているとさえ思えて来るほどである。モーツアルトは、やや異なる。来るなっと思って構えると、次の瞬間にフッと転調してしまい、アレッと思うと又違う処へ引っ張って行かれる。その内に、この唐突でしかも自然な転調や展開に翻弄されて、何処でも無い処へ飛ばされて行く。V協の3番や5番の様に、あれっと言う間も無くホワッと終わってしまったりして。「君の息継ぎ等考えた事も無いさ」と笑われているかの如くである。これが、後期ロマン派の曲になるとこうは行かない。
「バラの騎士」の第三幕、終幕近くの三重唱は、練り絹のような音場の中で三人のソプラノが誠に美しいメロディーを延々と続け、例えばバーンスタイン盤等は歌手が脳貧血を起こしそうに思える程延ばす。聞いているこちらも自然と息を止めているので、同様に脳貧血を起こしそうになる。マーラーの大曲の、特に緩徐楽章の幾つかがそんな雰囲気を持っている。特に九番の最後等がその典型と言えるだろう。そう言えば、内田光子の弾くシューベルトのソナタ“遺作”を聴いていた時、あの長大な第一楽章が始まるや「駄目!息をしたら怒る、息をしないで」と命令されている様な気になった事もある。素晴らしい演奏であったが、実はやや息苦しくもあった。
「息を呑む美しさ」とは、通例は風景や絵画・彫刻・建築等に使われる形容詞であろう。僕は視覚に依る感受性が乏しいのか、絵画や彫刻ではそんな風に魂を飛ばされるが如き思いをした経験は極めて限られている。でも、耳からくる刺激に息遣いを強制されて、息を呑まされる事は珍しくない。さて、次は誰が何の曲で息を呑ませて呉れるのだろうか。第九のシーズンは終わったし。