古典芸能入門 » 2009 » 5 月

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古典芸能入門

歌舞伎、文楽、落語に能、クラシックコンサートといわれると、なんだか敷居が高いと思っている方もいるでしょう。 でも歌舞伎にしても文楽にしても昔は庶民の娯楽でした。芸が芸能になり芸術になってしまうともはや文化の領域で自分とは関係ない世界のものと思ってしまったら人生の楽しみは半減します。 このコラムは観客歴40年以上という篠原安心院(しのはらあじむ)さんが、独自の視点で作品を楽しむポイントや役者の話、作品の背景からチケットの買い方、劇場の席を選ぶ方法などがわかる古典芸能をすんなり楽しむためのポイントを優しく親切に教えてくれるコラムです。 安心院さんの厳しくかつ軽妙な文章を読めば、いつしかあなたも古典芸能通になれます。お楽しみに!
2009 年 5 月 のアーカイブ

Vol.117 文楽  「 首(かしら) 《四》 」

2009年5月30日(土)

  前回文楽の首(かしら)のご難の歴史を見てみました。首は最重要の道具として物理的に存在しますから、壊れたり消失したりとそのご難も物理的に現れます。考えて見れば、文楽自体のご難は、一人首だけに止まらなかったと言うべきでしょうか。今から考えますと太夫にも三味線方にも、名人上手が輩出していましたし、人形方には初代栄三と文五郎と言う、歴史に残る名人が競っていたのが昭和の初期でして、どれだけ人気を呼んでも可笑しくない状態であったのですが、必ずしもそうで無かった様です。理由は、映画や新劇などの新しい芸能に民心が移った事が大きかった様です。それと共に、文楽の方も、“時局に合わせて”の掛け声に促されて、戦争物等の新作を手掛けざるをえず、折角の名人芸を発揮できる場が少なくなった事にも依るのでしょう。文楽の人気は、特にその故郷とも言うべき大阪に於いては、随分淋しい状況があった様です。

 

 前回触れました、大江巳之助なる人形作りの名人が、文楽の世界に入ったのはこんな時代であったのです。文楽の一座に人形師は一人も居らず、いわば独学で技術を習得したと伝えられるのも、この時代背景の結果なのでしょう。巳之助は、人形師の息子として徳島に生れます。そして、父親の仕事を見ながら人形の首を覚えると共に、当時の写真雑誌に連載された文楽人形の首の美しさに惹かれて人形師を志します。20代の前半に文楽座の裏方に加わった彼は、先に申し上げた通り独学で人形造りを始めます。人形造りの師匠は居なかったとしても、人形遣いの名人が師匠格に付いてくれます。栄三は「文楽で使う人形の首の全てを作れるように勉強し修行しなさい」と言って励まします。文五郎は「今からわしの出番だから舞台を見なさい」と誘ってくれ、彼と栄三の舞台を見せます。先の写真雑誌の文楽人形の魅力は、言わば静止した首の美しさであった所に、この先輩の二人は、その首が舞台で如何に使われるかを実地で教えたのです。

 

 文楽の立役の首は、顔の道具建てが少し誇張されて作られて居ます。眉も目も鼻や口も大きめに彫られて居ます。これは、舞台映えを考えての結果であり、遣われて居る人形を客席から見ますと少しも違和感は無いものです。ある時「芦屋道満」の保名の注文が来て、精魂込めて彫り上げると彼らから「ダメ」が出ます。「こんなに完璧に美しく出来た首(かしら)の保名は、狐と夫婦にはならない」と言われます。又ある時娘の首を作れと言われこれも自信を持って提出しますと文五郎は「こんなにはっきりと表情の出来た娘は、ガラス・ケースには飾れても俺には遣えない、娘の首はぼんやりと彫れ、魂は俺が入れる」と言われます。こう言う話は、作る方も遣う方も名人同士であるから成立する話の様に思えて興味の尽きない感じがします。

 

 戦時中に仕事が来なくなって巳之助は故郷の徳島に帰り、お祭のお面を作ったり市役所の臨時職員等をます。その彼の処に文楽座から連絡が入り、「文楽の人形の全ての種類の首を出来るだけ数作って欲しいと言われます」。戦争の結果手持ちの首が全く無くなった文楽一座からの緊急の依頼であった訳です。師匠は元々居ませんでした。お手本になる首も無いのです。あるのは、写真等の記録と彼の頭の中の記憶と先の二人の先輩の教えのみです。こんな中で、巳之助の奮闘が始まります。結果、現在文楽協会が保有して居る首が400個余り、その殆どがこの戦後の時代に巳之助が彫った首になっています。巳之助は、1997年に89歳で生涯を閉じて居ます。

 

 文楽の舞台を作り上げて居る多くの要素の内、その歴史的な展開がやや劇的な首(かしら)に付いて、四回に亘ってお話を致しました。おおらかに底抜けに楽しい舞を舞う三番叟の首も、しっとりと行灯に向って「今頃は半七さん」と問いかけるお園の首も、同じ一人の名人の手になって居ると思うと、彼の偉大さがつくずくと思われるのです。

 

posted by 篠原安心院 at 09:25AM
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Vol.116 文楽 「 首(かしら) 《三》 」

2009年5月21日(木)

  人形浄瑠璃の全盛時代と言えば、18世紀に入って大阪の道頓堀に竹本座が開場しその東側に豊竹座が競う様に座を作り、両座で次々と後世に名作として残る様な新作が生み出された時代でしょうか。途中で三人遣いの人形が工夫され、舞台も大きく華やかになります。これを受けて、今でも三大名作と呼ばれる出し物が次々と人気を浚ったのが18世紀の丁度中頃で在りました。実はこれは人形浄瑠璃が一番盛んであった大阪での話でして、最早記録に残っているだけですが、京都にも江戸にも殆ど常打ちの人形芝居の小屋があった模様です。又、素人の集まった人形芝居は、別に全国に広がりを見せて居たらしく、特に大阪の直ぐ近くの淡路島とこの島を藩の一部とする阿波には、本当に数多くの人形芝居の小屋があったと伝えられます。と言う事は、今から考えると気の遠くなるほど多くの人形、特に首が作られた筈です。

 

 これらの首(かしら)作りは、一時は上記の大阪や江戸にも現れ夫々の工夫の首が作られたものと思われます。一時期極めて盛んであった人形芝居も、その後徐々に下火となり、18世紀の終りには、上記の両座とも相前後して小屋を閉めるに至ります。19世紀に入り、阿波から植村文楽軒なる人が、家業で蓄えた資金を元手に大阪で人形芝居の小屋の経営を始めここに人形浄瑠璃を文楽と呼ぶ素地が出来ます。この人とそれから何代か続く植村家の人たちは、人形芝居に極めて良い感覚を有して居たらしく、人形の衣装も又首も本当に良いものを集めて一座をなして居た様です。首の製作者達も、人形芝居が下火になると共に数は減少した様ですが、それでも近世には何人かの名人と呼ばれる人形師が生れたらしく伝説的な言い伝えが残って居ります。この後、文楽は“文楽座”と言う名を変えないで、明治42年に松竹の傘下に入り、そのまま昭和38年迄続きます。

 

 さて、首のご難は大正15年に始まります。この当時文楽座は御霊神社の境内にありまして、御霊時代と呼ばれますが、その最後はこの15年の火災で在りました。千秋楽の打ち上げの後で火災に見舞われ小屋は全焼して仕舞います。この時に近くに居た若い関係者が駆けつけて、道具部屋から大きなつづらを何とか一つ引きずり出します。それが中身は衣装でして首では無かったのです。首のつづらはその隣であったとか、結果国宝級と言われた首を殆ど消失して仕舞います。でもこの時は個人の方でご趣味で良い首を幾つも持って居た人も居られた様で、これらの首をアチコチから借り集めて興行を続けます。

 

 さてその次の災難は戦争です。戦時中にも拘らずと言うか、戦時中であったから尚の事であったのか、文楽は苦しい中で興行を続けます。昭和20年3月の大阪の空襲の折に、四つ橋の文楽座が全焼します。御霊での経験から耐火のつづらに首を入れて置いたのですが、中まで蒸し焼き状態で、出て来た首はホロホロと手の中で崩れたと言われます。この瞬間は、約半分の首が巡業地である神戸に持って行って在りましたので無事でしたが、その神戸も数日後に空襲に合いこれまた焼けて仕舞います。これで文楽も終りかと散々言われたものなのは、この首も衣装も全く手持ちが無くなった状態で、その上常打ちの小屋も消失して仕舞っていたからなのです。ここから関係者の悪戦苦闘が始まります。終戦直前の関西中を駆け巡っては、個人所有の首を借り集めます。阿波や淡路等の地芝居小屋にも情報を集めに回ります(これらの人形芝居に於いては、首は人形方の個人所有が主流でして、これを手前頭と言います)。そして使えそうな首は早速に借ります。そんな努力が続きます。

 それと共に新しい首の作成を大急ぎで始めます。大江巳之助と言う現代の名工が寝る暇も惜しんで製作に当たります。

 

 文楽の舞台で綺麗に飾った阿古屋の首等を見ながら、そう言えば文楽の首(かしら)には大変な歴史が潜んで居るのだと、時に思い出します。

posted by 篠原安心院 at 09:53AM
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Vol.115 歌舞伎 「 大道具 《一》 」

2009年5月14日(木)

  歌舞伎に限らず舞台芸術に於いて大道具と言えば「舞台装置」の事を意味します。歌舞伎に於ける舞台装置の基本は、舞台の前の方(観客に近い所)と、それより奥の所で、役者さんが演技をする平面に一段段差を設けてある事にあります。この上に上がった場所の事を二重と呼び、これは文楽の舞台でも同じ呼び方になって居ます。この二重の奥に、時代物ですと襖が閉まっていてこの襖の後ろは白い壁に見える“走り込み”と呼ばれる空間が広がっています。世話物ですと、襖の代わりに暖簾が掛かっており“暖簾口”と呼びその奥は観客の目からは隠されています。二重の上手側にはもう一間部屋があり普段は障子が閉まっています。ここの事を障子屋台とか上手屋台とか呼びます。さて、この上下に分かれた舞台ですが、奥に造られる二重の高さに、三種類あります。高い方から「高足」・「中足」・「常足」と呼ばれ、劇の内容に依って使い分けがされます。この時、下の平舞台と二重の間に階段が置かれます。常足の時には一段、高足の時には三段の階段が置かれます。この建物の入り口は通例下手側(舞台に向かって左側)に設えて在ります。そこに門があったり、玄関の格子戸が置いてあったりします。この下手側の出入り口が逆の上手側に回る事は少ないのですが、そんな時は「逆勝手」と呼んだりする様です。忠臣蔵九段目を人形浄瑠璃で見ますと、この逆勝手が出て来ます。歌舞伎の九段目は通常の下手の出入り口です。どうして出入り口は下手側が通例なのかは良く分かりません。歌舞伎関係の解説書等には、花道が下手側に作られて居るので当然にそうなるのだと断定的に書いてありますが、花道を通例は使わない文楽の舞台も同様なのです。先の九段目の逆勝手に出くわしますと、かなり面食らいますし、浄瑠璃に合わせて上げる視線が下手側に泳いで、重要な演技の切っ掛けを見損なったりします。その位、出入り口は下手側が僕たちの感覚に刷り込まれているのです。

 

 さて、基本の形態が以上の通りとして、後は出し物の性格に依って微調整を加える事になります。例えば、下手側にも障子屋台を組むとか、上手屋台を中二階風に作るとかです。実際、世話物乃至世話場の舞台を見ますと、寺子屋の作りも野崎村の久作の家も六段目の与市兵衛の家にしても、観客席からの見てくれは殆ど同じに見えます。勿論二重の在る無しはありますが。それなれば一度作った舞台装置を次々と遣い廻したら経済的であろうと思います。どうやら歌舞伎劇の当初はそんな事であったらしいのです。そしてこう言った遣われ方をした大道具を「定式大道具」と呼んで居た時代もあった様です。でも最近はそうは行かないのですね。例えば、熊谷陣屋としましょうか。熊谷は、衣装を取り替えに二回先の走りこみに消えます。襖が左右にさっと開いて悠然と背中を見せて入ります。この熊谷直実は実事系立役の役者さんに取っては是非とも且何回も遣りたい役の様ですが、その役者さんの背の高さが区々なのですね。180cm近い人も居れば160cmギリギリの人も居そうです。そうしますと、走り込みの前の襖の高さが問題になります。欄間迄にあまり空間が在り過ぎますと余計背の低さを強調しかねません。同じ事が、暖簾口の高さや欄間に上の神棚の位置等にも当て嵌まりそうです。ですから、大道具は座頭の役者さんの考えで毎回変わるのだそうです。勿論高足二重の基本屋台構造を作る材木組等迄毎回処分するのでは無いでしょう。これらは何れ組み上げる基本であり、多くの場合は観客の目から隠されて居ますし役者さんの体付で変更する訳でも在りません。でもこの基本骨組みに乗る部分は、そうやら公演毎に作り変えるらしいのです。

 

 各劇場はどうやら専属の大道具方を持って居る様です。劇場付属の事もあり又劇場の外に専属の会社を抱えて居るケースもあるようです。歌舞伎座の場合は、非常に長い時間に亘り長谷川勘兵衛なる人が作った仲間がこの役を引き受けて来た様です。代々勘兵衛を名乗り当代は18代目になるとか、この会社が近代歌舞伎座の舞台を全て作った訳で、大変に貴重な記録が山の様に残っていると言う話です。その歌舞伎座も近々建て替えとか、新しい舞台に映える新しい大道具が楽しみな訳です。

posted by 篠原安心院 at 09:31PM
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Vol.114 古典音楽 「 古楽 《二》 」

2009年5月7日(木)

 

 古典派ないしそれ以前のバロック音楽と呼ばれる楽曲が作曲された時代に、それらの曲を演奏した楽器は、今のモダーン楽器とは大きく違って居たので、作曲された時代の楽器や奏法で演奏すると言う考え方や実際の演奏そのものを“古楽”とか“古楽派”とか呼びまして、今や一つの大きな流れを形作っていますと、前回お話致しました。

 

 楽器の違いは、比較的遠くからでも見て分る事が多いのです。例えば、ホルンやトランペット等の金管楽器は、音程を変えるバルブが付いていないですし、フルートやオーボエの木管楽器も音程調整用のキーが付いていない楽器が多く目に付きます。こう言う楽器ですと途中で半音を出すのが極めて難しくなります。ヴァイオリン族の楽器は、本体の形態はさして変わりませんが、弓の先端部分の形が大きく異なりまして、古楽器だなと分ります。チェロの仲間には、先端の金具(ヘッドピンと言います)が無くて、楽器を足に挟んで演奏するのも在ります。そして奏法的には、音を綺麗に揺らすビブラートを最小限にしか使わない等の点に特徴が出て来ます。半音を出す事が不得意な楽器が入って居ますと、自由な転調等もやり難い訳で、その分外見的には単純な曲想の曲が多くなるのです。

 

 ここで、序にピッチのお話をしましょう。ピッチとは、ある音の絶対的な高さを表す言葉です。オーケストラの演奏会に行きますと、楽隊が並び終わり指揮者が出て来る前に“音合わせ”をしますね。通例の場合ですと、オーボエが中央のラの音を出して、この音に各人の楽器のラの音を合わせます。先ず管楽器が合わせてその後弦楽器が合わせる楽隊と、この逆の順で合わせる楽隊とありまして、音楽はこの音合わせから始まるとも思われます。ピアノ協奏曲の場合等は、コンサート・マスターが目の前のピアノのラの音を叩いてこれに合わせたりもします。この中央ラの音は、基本的には一秒間に440の振動数の音と言う事に、これは国際的な基準に近い了解が成立して居まして、ですからどこの国に行っても、440サイクルがラの音として通用する事に建前としてはなって居ります。然しながら近年、欧米の一流のオーケストラの中には、音場のより華やかな響きを追求して、これを442とか443等ほんの若干高めに調整する傾向が流行りの様です。我が国の地方のオケがベルリン・フィルの木管奏者を独奏者に招き協奏曲を演奏しようとした処、独奏者の楽器が443に調整済みで、オケはキッチリと440なもので、音合わせに偉い苦労をしたと言う実話が伝えられて居る程です。

 

 

このピッチの話が、より大きな形で出て来るのが古楽の世界なのです。先の中央ラの音で言いますと、440に比べて半音程低い415と言うピッチで調整がなされ且演奏されたのが、後期のバロックの時代、つまりバッハやヘンデルの時代であった様です。それ以前のルネサンス時代のオルガン曲等には、逆に半音高い460と言うピッチの物もあった様です。どうやら18世紀の後半の古典派の時代では、現行よりかなり低い430が使われるケースが多かった様なのです。こうなりますと、ハイドンやモーツアルトの曲の演奏が引っ掛かって来てしまいますね。古楽派の中には、このピッチもその時代の通りとする演奏家も多々居りまして、それでなくても楽器の出す音が渋いのに加えて、ピッチも下げますからより一層渋く聞こえ勝ちな訳ですね。

 

 私の友人に、長年ピアノを習って“絶対音”を身に付けた人が何人か居ます。全ての人では無いのですが、中にはこのピッチの違う古楽の演奏会に行くと、眩暈がし始めると言う神経質な人もいるのです。

 

 文楽愛好家の中には「下手な太夫の浄瑠璃を聞くと息苦しくなって困る」と言う人が居る様で、何もそんなに一所懸命に聴く事も無かろうにと思うのですが、この古楽のピッチの違いで眩暈がすると言うのは、この浄瑠璃愛好家に一脈通ずる処がありそうです。私は絶対音等持ち合わせて居りませんし、何を聞いても無事なのは、有難い事なのでしょう。

posted by 篠原安心院 at 05:24PM
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