さて、今回からオペラのご案内を致します。本屋さんや図書館の該当のコーナーに行きますと、オペラへの案内と言った本が沢山あります。中には500頁を越す大著もあります。それを、短い文章でご紹介するのは、十全を期そうと思えば、土台無茶な話です。その無茶をやって見ましょう。
オペラは何かと真正面から問われると返答に窮します。先の種々の本には多分オペラ(乃至歌劇)の分類学が長々と書いてあろうかと思われます。その分類学にしても、世界統一基準見たいなものがある訳では無く、各著者の勝手な美意識に依る独善からの分類ですから、読む度に違う事になります。善意の読者はこの辺りで本を閉じてしまいます。分類が好きで、何事も分類から始めるのが西欧流の二元論の世界の通弊かな等、余計な事を考えます。
さて、では簡単にオペラとは何か。
人が、ある種鍛錬をされた肉声に深く揺り動かされて感動するのは、多分人類の歴史と同じ古さを持つ現象ではないかしら。高僧のお経を聞きますと、何が説かれているのか皆目判らなくても、ある種の宗教的な思いが胸に去来します。あの感じです。ですから、古代に力を持っていた巫女や呪術師達はなべて声の鍛錬をした説得的な発声の持ち主であったに違いありません。
この肉声の持つ力を最大に発揮させる形式が歌であります。歌も多分人類の歴史と共にあったのだと思います。人間がどんな形で神と出合ったのかは、民俗学の分野でしょうが、歌もその出合った神への賛歌や祈りがそも始まりでは無かったのかなと考えます。少し経ちますと、神を中心とした劇が創られます。この劇が中に歌を持って居たであろう事は、明らかです。ギリシア悲劇も、韻律を踏んだ台詞を、喋るよりは朗詠と言いますか、むしろ歌ったと言うべきでありましょう。ですから、多分歴史的には僕たちの祖先が劇を持ち始めたその時から、その劇は歌を含む言わば“歌劇”的な要素を持って居たのだと思います。そしてその最大の理由は、肉声の持つ力、多分当初は呪術的な力だったと思いますが、声の魅力であったに違いありません。ですから、オペラ的な演劇形態は、どの民族も固有のものを持って居たと推測されます。長い歴史の時間の中で、どの時代に発展を遂げ、どの時代に衰退し(或いは消滅し)たか、等は、夫々の民族の歴史に依って区々でしょうけど。
と言う事は、オペラ的な演劇形態は各民族が固有の文化として持って居ると言えます。中国では、ギリシアより古い春秋時代に、俳優に依って演技と歌唱とがなされたと言う記録が有る様ですし、我が国でも、先行の幾つもの芸能が例えば能に纏っておりますが、あの能などは立派なオペラ的な性格を持った形態といえます。能がオペラ的と言うなら浄瑠璃はどうでしょう。義太夫もそれは立派な声楽曲ではありますが、全ての登場人物を一人で語り込んで仕舞いますので、やはり少し違う種類の芸能かなと思われます。
つまり、オペラとは、肉声の持つ力・迫力を十分に発揮する様に、歌に依って台詞を印象的に歌い上げる様に作られた、劇であると言えるでしょうか。とすれば、オペレッタもミュージカルも皆オペラですかと突っ込まれそうです。僕は敢えてその通りと言いましょう。正規の歌劇場で上演される“通称”オペレッタも幾つもありますし、その内“キャッツ”がメトロポリタンの板に乗るかも知れません。
何やら直接関係の無い事ばかりを並べた感じもしますが、オペラの根源は肉声の持つ迫力であり説得力であり表現力なのです。オペラに行くのは、第一義的にはこの肉声の持つ魅力を、全身を以って受け止める楽しさ・手応えを、我が物にしたいから行くのです。文句が判らなくとも大丈夫(坊主のお経だって誰も判って居ないけど結構なものでは無いですか)。大まかな粗筋を頭に入れて置けば十分です。それより何より、生の声の迫力を楽しんで下さい。
そろそろオペラのお話をする順番かなと思い始めて居ます。そこで、今回はオペラの気軽なバージョンであるオペレッタのお話をしましょう。
ヨーロッパの主要な都市には、二種類の歌劇場があったものです。一つは、正統派の歌劇を上演する国立劇場等と名の付いたもの、もう一つは無理して日本語に訳しますと「国民劇場」とでもなる劇場で、こちらがオペレッタの本拠地とされて来ました。ウィーンを見てみますと、正統派の方がウィーン・フィルがオーケストラ・ピットに入るウィーン国立歌劇場(小澤征爾が音楽監督をしていますね)で、今一つの方がウィーン・フォルクス歌劇場(フォルクスは国民車フォルクス・ワーゲンのフォルクスで国民と言う意味でしょう)、こちらがオペレッタの劇場なのです。
正統派の方は、原則として原語による上演がなされます。これに反してもう一つの方は、原則として自国語での上演となります。時に同じ演目が両方の種類の劇場で上演される事があります。例えば、ホフマン物語ですが、ウィーンでは国立劇場ではフランス語で、フォルクス劇場ではドイツ語で、或いはJ・シュトラウスの「こうもり」の上演は、ロンドンのコヴェント・ガーデンではドイツ語で、昔サドラース・ウェルズと言った劇場では英語で上演される、そんな風なのです。
オペラは悲劇が大半を占めて居ます。ヴェルディは生涯に本当に多くのオペラを書いて居ますが、喜劇は生涯最後の作品である「ファルスタッフ」唯一曲のみなのです。この様にオペラは悲劇(つまり主人公が死んで話が終わる)が、実に多いのです。これに反してオペレッタは「喜歌劇」とも訳される位で、喜劇が中心です。即ちハッピー・エンドでありまして、見終わって気分が晴れ晴れとしてくる感じがするのがオペレッタです。使われて居る歌も又伴奏するオーケストラの受け持つ部分もですから、気張らずにやや軽めに作曲がなされています。こう見て来ますと、一昔前のアメリカ製のミュージカルに性格は似て来ます。ある時代ミュージカル映画が数多く紹介されたものですが(私も沢山見ました)、あの映画の画面が舞台上で演じられると思えば、そんなに間違いではありません。事実、ウィーンのフォルクス劇場でブロードウェイ原作の「ハロー・ドリー」を見た経験も有ります。アメリカ製の猥雑さが拭われて何とも品の良いハロー・ドリーとなっていました。
中には本格劇場とオペレッタ劇場と両方で上演される演目があると書きましたが、当然の事乍ら片方でしか取り上げられない曲が殆どです。ワグナーの指輪を上演するオペレッタ劇場は想像出来ません。
処で、オペレッタ劇場でしか上演しない演目も同じ様に沢山在りそうです。例えば「ボッカチォ」。昔これをフォルクス劇場で見まして、戦前に浅草オペラと称してエノケンや田谷力三達が流行らせた「恋は優し」だの「ベアトリ姉ちゃん」だのが、次々に出てきて楽しかったのですが、観客は全ての筋と全ての歌を知った上で、今日は誰がどんな風に乗せて呉れるかとワクワク楽しんで居る、そんな雰囲気が伝わって来まして、この出し物は立派に現在に生きて居ると思ったものです。この感じはどこか我が国の古典落語を楽しむ楽しみ方に似ているかも知れません。でも、こう言う出し物は極めて国民色が強く(なにしろ国民劇場ですから)、他の文化圏に属する者が見ても十分には楽しめないのかも知れません。そしてこう言う曲目が各国に沢山ありそうです。多分その国ではCDや今やDVD等も作られて居るのでしょう。でも我が国には入って来ませんので、知られて居ないのが実情です。
例外的に両方のタイプの歌劇場で上演される演目として、例えば先に挙げましたJ・シュトラウスの「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドー」があります。他にも幾つかあるでしょう。こう言う曲は、出来上がりの曲自体の芸術性も高く、且本格劇場の歌手達が喜んで歌う魅力に富んでいるのです。我が国でもオペレッタと言うとこの二つの曲を中心に限られた数の演目しか上演されません。しかし、この二つは上演の機会は実は多いのです。歌われる歌に名曲が沢山入って居ます、合唱もあり中でバレエもありで、上質な演奏に出会うとそれは楽しいのです。もし、この二曲を聴く(見る)機会があれば、オペレッタって何だと思われずに、品の良いミュージカルと思って是非お出かけ下さい。舞台から聞こえて来る肉声の迫力は凄いものがあり、これはどんなに逆立ちをしても録音も映像も及ばない事なのです。その生の声の迫力に酔うのが、オペレッタを好きになるひいてはオペラへ向う重要なステップなのです。
少し前に、録音された音源はステレオ録音の開発からCDの一般化に至る迄、ほんの短い間に素晴らしい技術開発の積み重なりのお陰で、良い音を楽しめる様になったと書きました。映像化の方も同様でして、最初はビデオでしょうか、その後LD(レーザー・ディスク)の開発があり、現在の最先端はDVDとなりましょう。これも短い間の素晴らしい技術開発であると思います。何だか実に豊かな未来が約束されて居そうで考えるだけで嬉しくなります。
前回書きました、殆ど私のオペラ経験の原点をなすフルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」とカラヤンの「ばらの騎士」に圧倒されたのが、学生時代でした。‘60年代の終り頃に研修生としてロンドンで生活する事になります。この時代に大いに劇場やオペラ場に通ったのです。さて、ヨーロッパではクラシック音楽には、シーズンが在ります。9月の後半に始まり翌年の4月の末頃で終わるのです。コンサートもオペラも(序に言えば芝居も)ほぼ同じシーズンなのです。オフシーズンの夏はと言えば、各地で開催される音楽祭の期間となるのです。この間に特段の音楽祭等開催しない多くのホールは空き家になるのですが、注意していますとオペラの映画を良く上演したものです。料金は格安ですが、それでもそんなに沢山の観客を集める訳で無く、地味な映画会だったものです。そんな映画も幾つも観ました。先に挙げた二件以外にも数多くのオペラが映画化されているものだと、羨ましかったものです。こう言う風にして作られた映画が、暫く後に始まるビデオやLDの原画となったのだと推測される訳です。
最近の技術では、オペラの記録を映像と音源で残す等比較的簡単な事に属する様です。暫く前迄は、ビデオ撮りが入ると照明が通常と異なりやや明るくなるので、それに出会わせると少し損した気になる、そんな事がありましたが、多分今や無用な心配なのでしょう。そしてそれをDVDの形で商品化するのも技術的には簡単のようですし、劇場で上演するのも簡単のようです。昨日のウィーンでの上演の記録を翌日東京の劇場で、記録映像で観るなんて事も出始めています。映像があることが重要な意味を持つオペラで、映像化された媒体を楽しむ機会がこう言う風に増えてくれるのは、結構な事で大いに歓迎です。多分、映像で楽しまれた方は、その内に実演に歩を運ぶ様になり、オペラファンが増えて行くのだと思っています。
次にオペラ以外の映像化について話を進めましょう。
オーケストラに依る管弦楽の演奏の映像化は、オペラよりも少し遅れた感じです。どう工夫しても出来上がりはオーケストラしか居ない画面で、いくら指揮者が頑張っても、長丁場の映像化に耐える事が可能か否か、自信が持てなかったからでしょう。ここでもリードしたのは、カラヤンなのです。彼は、何処よりも豊麗な音を出す楽隊(ベルリン・フィル)を育て上げ、誰よりも広い守備範囲の実に多種多様な曲を多彩に録音して行きました。結果は明らかで、実は多くがベストセラーであったのです。この事実を梃子にしまして、映像化に乗り出します。結果的にかれは多くの映像を残しますが、どうも生前は彼が目論んだ程には、少なくとも一般家庭用には売れなかった様です。一つには現在の様に量販体制が確立して安くなる前に亡くなったからかも知れません。DVDに彼の作品が多くあるのは、意図的に映像つくりに注力した結果なのであって、彼以後は同じような事をする指揮者が増えて来ています。
カラヤンの面白いのは、映像化に当っては、カメラの角度や画面構成にも大変に凝ったと言う話が残っている事です。推測するに彼の主張は、画面で人間らしく登場するのは指揮者に限る事、楽団員を写す時は曲の中でそのパートが印象的な部分を演奏する時とし、写し方は出来るだけ楽器中心に写す、そんな事でしょうか。だからオーボエの独奏の時には、オーボエ奏者が画面に出て来ますが、どうかすると彼の口元から楽器自体と手と指しか写らず、指運は良く見えますが、奏者が誰であるか判らない、そんな画面も多いのです。ヴァイオリンが一斉に鳴って居る時はヴァイオリンが沢山画面に整然と並びそれこそ一斉に演奏されていますが、演奏者は特定出来ない事が普通です。オーケストラを見ていて気になるのは、楽隊の構成や大きさです。弦楽器は、最低音のベースから奏者の数が二人増えてチェロ、又二人増えてヴィオラと通常なります。ですから、ベースの数を確かめると弦楽器の各パートの数が推測出来るのです。でも彼のオーケストラ曲の映像を見ていてもこう言う形で楽隊を俯瞰する画面が出てこず、オーケストラの構成は最後まで判らないと言ったケースが多いのです。でも兎も角彼の考えに沿った映像が作られ、その映像は演奏されて居る曲を印象深くしてくれるので、好きな曲ですと楽しんで見てしまいます。
さて、面白いのはこのカラヤン風の画面作りが他の指揮者にも踏襲されて居る事です。その代わり、ある種の安心感を持って見ていられます。
私としましては本当は、これ等手軽に楽しめる様になった例えばDVDを見ているとつくづく実演を聞いたくなる、そんな工夫をして呉れると良いなと思います。
レコードの歴史の中で、「電気録音が可能になり音質が格段に向上した」と述べました(それとて、今から聞いて見ますと古い感じの拭えないSPの音ではありますが)。これが、歴史的には1924年に開発された技術であり、最初の商業録音は、A・コルトーのピアノ独奏であった様です。オーケストラに依る最初の録音はストコフスキー指揮の「死の舞踏(サン・サーンス)」の様で、共に1925年の出来事と書かれて居ます。
この事は程なく映画に応用されまして、無声映画が有声化されます、所謂トーキー映画の開始です。こちらの最初はアメリカでは‘27年の「ジャズ・シンガー」と言う映画が最初とありますし、本邦では田中絹代主演の映画(‘31年)が最初であった様です。これから暫くしてご存知の戦争の時代に突入しますので、アメリカ等で映画化されたクラシック音楽は、あったとしても入って来なかったのでしょう。そのアメリカでさえ商業的には、例えばオペラの映画よりは、多分ポピュラー系の音楽を使ったミュージカル見たいなものの方が人気を取りやすく、従ってアメリカでもそう言う映画が多く作られたのだと思われます。我が国での戦中の時代の展開に関しては、今残っておりますフィルム・ライブラリーから時に珍しいものを見せて貰いますが、エノケン主演の歌の入った映画等に改めて驚いたりします。
戦前に作られた記録映画として出色なのは、昭和18年(‘43年)に作られた歌舞伎「勧進帳」だと思われます。七代目幸四郎の弁慶、十五代目羽左衛門の富樫、六代目菊五郎の義経と言う配役の記録映画が今に残っていて、楽しめるのは大きな喜びです。勿論トーキーでして、各名優達の台詞廻しが十分に楽しめます。
さて、歴史はこれ位にして、視点を少し変えて考えて見ましょう。私は常々聴覚は視覚よりも曖昧な感覚器官では無いかと考えて居ます。一つの例は、レコードやCDですと、同じ音源をそれこそ何度も聞きます。気が付くと掛けて仕舞っていると言った感じになるお気に入りのCDなどでは、何十回となく聞いたものがあります。同一の演奏家に依る同じ曲を、です。ですから、勿論曲の細部に亘って迄細かく覚えて居ますが、それでも掛けて聞く訳です。ところで、映像化されたもの、例えば映画のDVD等をこう言う風に何回と無く見るでしょうか。私は昔から映画を余り観ませんでしたので、映像化されたソフトをそんなに持って居ない事もありますが、映像はそんなに見ないのです。同じ演奏のCDの方をむしろ頻繁に聞きます。多分視覚と言う感覚器官は、記憶に関しての装置が良く出来て居て、何回も見ようとすると先に満腹感が来るのかも知れません。そうで無い方も多く居られるとは思いますが。
昔、ウィーンでこれに関して面白い実験をした話をご紹介しましょう。出て来るものは、ウィーンの郊外の誠に綺麗な風景の画面とその画面に似合うクラシックの曲でウィーン・フィルの演奏したものです。この画面と曲を意図的に編集したもの二種類を用意します。片方は、荒れたもの、もう片方は綺麗なものです。それで、荒い画質の(つまり汚い)画面と綺麗な音源、片方はその逆と組み合わせまして、プロを含む数多くの観客に観て(同時に聞いて)貰います。二つとも説明無しに終えて、最後にどちらの音の方が綺麗に聞こえましたかと質問しますと、大半の人が綺麗な画面の方が綺麗な音でしたと答えたと言うのです。音だけを取り出して比べれば間違い様の無い程汚い音の方が、綺麗な画面の印象に惹かれて綺麗に聞こえたと言う訳です。ある種の心理学の実験であったようですが、事が事だけに良く覚えて居ます。そして視覚の方が聴覚よりも明確且強い感覚器官なのだと思ったのです。
ところで学生時代(もう半世紀近く前になりますが)には、演奏会こそ数多くありましたが、オペラは中々上演されませんでした。イタリア・オペラの公演とかベルリン・ドイツ・オペラの引越し公演等、何年も前から大きな話題になる事件でして、学生が気楽に楽しめるものでは無かったのです。我が国のオペラ上演も現在に比べると遥かに機会の少ないものでした。そんな頃、オペラの映画が来たのです。一つは、1954年作成のフルトヴェングラー指揮の「ドン・ジョヴァンニ」の映画、もう一つは‘60年作成のカラヤン指揮の「ばらの騎士」の映画でした。実は両方ともザルツブルグ音楽祭の録画であったのです。ヤマハ・ホールかどこかで大きな画面に大きな音量の音で聞いたのも良かった事かも知れません。それまで限られた経験しか無かったオペラなるものを初めて本格的に見た思いでした。実は私の場合、オペラだけは、録音や映像の方で楽しみ始めて、後に実演に通う形で楽しみに加わったのです。
現在では、オペラも公演の機会も増えました。それに加えて映像化されたソフトも多く出回って居ります。これらのものを楽しむのも、クラシック音楽の楽しみ方の一つな訳で、精々利用しようでは有りませんか。
小林秀雄の名品に「モオツアルト」と言う文章があります。吉田秀和にも若い頃の作品として「モーツアルト―出現・成就・創造―」なるこれも名品があります。両方とも戦後直ぐに出版されているのです。読みますとお二人共モーツアルトに耽溺するが如くに聞き惚れている様が窺えます。でも、時代から考えるに実演の演奏会(特にオペラ等)は、望んでも不可能でしたろう。ですから聞いたのは(今から思えば音の悪い)SPであったと思われます。SPを聞いてあれだけの評論を書くと言う彼らの抽象力には驚きます。
戦後、復興過程の中では、中々良質の音楽会に恵まれない時代が続きます。この間に、LPが出ステレオ化され、再生装置の改良が進みと、実演の状況と均衡を欠く形でオーディオ装置の為の技術の展開があり、又々録音のみ聞いて実演と縁を切ると言うファンの再生がなされたのだと思われます。
今や我が国は、中でも東京は、クラシック音楽の巨大なマーケットでありまして、毎日何十もの音楽会が開かれて居ます。日本人のプレーヤーも本当に多くが育ち且育ちつつあります。欧州のコンクール等では、日本からの応募者の多さがそのコンクールのレベルの高さを物語る等とさえ言われているのです。その結果、欧米で活躍する音楽家の数も大変に多くなりました。つまり長年のクラシック界の夢であった自国演奏家に依る高品質の演奏会の機会も幾らもありますし、耳の肥えたファンに向って真剣に演奏する海外からの演奏家や団体も引きも切らずと言った状況で、我が国の音楽界を賑せて呉れています。
私の経験からは、音楽に酔いたいと思うのなら、実演を聞くに如かずと思います。勿論行くたびに魂を飛ばされる様な感覚が得られる訳では有りません。しかし、実演に接しなければ永遠に得られないと思われます。録音の音源を楽しむのは、その酔った感覚を追体験する為に聞くのです。この逆の道を辿って、CDで酔ってその追体験の為に実演に行くと言うのは、有りそうで無いケースと思われます。
前回の終りに折角なら良い音で録音されたものを聞きたいと言ったのは、この意味で、実演を正に彷彿させて呉れる録音と言う意味で申し上げた事なのです。