ステレオ録音に依るLPの改良がどんどん進んで居た1960年頃から、戦後の復興も一段落して多くの良質の製品の輸入が始まります。オーディオの世界も、劇場用から一般家庭用に至るまで、実に多くの製品が輸入され紹介されて行きました。オーディオ・マニアなる人種が今よりもずっと多く居たのです。秋葉原の電気屋街にも、これらの製品を大きな部屋に取り揃えて、アチコチ組み合わせながら音を確かめる事が出来る試聴室が幾つもあったものです。お気に入りのレコードの何枚かを抱えて、聴いて見たい組み合わせで聞かせて貰いに、これらの試聴室に通う人がそれは沢山居たものです。その頃、彼らの間で人気のあったオーディオ評論家の一人が五味康祐だったのです。
彼はオーディオ談義を沢山残して居りますが、今でも覚えて居るのが二点あります。一つは彼にとっての究極のシステムは、ダンノイのスピーカーをクォードの真空管アンプで鳴らすと言うものであった事。今一つは、そのシステムで聞くと左右のみならず上下も前後も聞こえて来ると言うものでした。この第二点目は、デモンステレーションの花火の録音を聞いた時、上空で炸裂した花火の音に思わず上(天井)を見たとありますし、ピアノ独奏を掛けたら音が高い所から低い音に移るに連れて音が手前から奥に移ったとあります。この二つの話は物理的にはナンセンスでしてあり得ないのですが、彼が語るとかなりな説得力を持って聞こえたものなのです。
さて、錯覚は兎も角として、タンノイのスピーカーに限るとのご託宣は実に今に影を落として居ます。前回オーディオは今や一部の好事家の道楽になったと書きましたが、その好事家の多くにタンノイ・ファンがいるのです。勿論タンノイは英国製でしてやや地味な渋い音造りになって居ます。その点もう少し派手な音を出すアメリカ系のシステムを好む好事家も沢山居ます。
処で、これらの人々に共通な点は、どうやら彼らは実際の音楽会には中々出かけ無いと言う事にありそうです。何故と聞きますと、答えは(表現は区区ですが)「だって家の装置の方が良い音で鳴るから」と言う点でも一致していそうです。ウィーン・フィルでもベルリン・フィルでも何でも実演で聞いてみて、家に居て聞くのと同じ位豊麗で迫力のある音に聞こえた例が無い、聞いてフラストを起こす位ならお金を掛けてなぞ出掛けない、とこう仰るのですね。多分こう言う音楽ファンは世界中に沢山居るのだと思われます。しかし乍ら、実に多くの人がこのような性向を持っているのも、我が国の特徴の一つかも知れません。
当然の事ではありますが、例えば100名近いオーケストラの作り出す音が、どんなに技術の進歩があったとは言え、家庭での限られた空間の中で、オーディオ装置が過不足なく再現出来る筈はありません。従って、オーディオ装置はどこまで行っても、いかに「それらしく聞かせるか」と言う装置なのです。各メーカーさんには、この点に関して多分独特の哲学があるのだと思います。ですから出てくる音は、その哲学に依って性格付けが為された音が出て来ます。その装置が出す例えばウィーン・フィルの音が、実演では家で聞く音とは違って聞こえるのも当然なのです。
再生音ばかりを聞いていますと、その装置の色の付かない実演の音が「よそよそしく」感じられる事だって大いに在りそうです。実演と縁遠いオーディオ愛好家の感じて居る事は、この様な事なのでしょう。これについては、次回に続きます。
解説書等を見ていますと、モーツアルトもベートーヴェンもどうやらかなりなピアノ奏者であった様です(モーツアルトの場合にはヴァイオリンも上手であったらしい)。19世紀に現れた楽器奏者で、その名人芸が語り継がれて居る人に、例えばピアノのリストとかヴァイオリンのパガニーニとか、その他多くの名人の名が出て来ます。でも、如何に事細かに記述されていても残されて居るのは所詮文章ですし文字な訳でして、どう睨んでも音は聞こえて来ませんね。
今の録音技術がその頃あれば、これ等の人々の自作自演だの名人芸だのが聞かれる訳で、残念な感じがします。当然の事乍らこの感じは人類の歴史と共に共有されて来たと言えそうでして、記録として何とか音を残せないかと言う工夫や努力は延々をされて来た様です。
歴史の教科書的に言えば、録音はエジソンの発明で、試作品は19世紀も終りの方の1870年代とされています。彼は、円筒形の蝋管を使ったシステムだったようです。その後20世紀に入り円盤型のシステムが開発され、技術開発も進んで行ったのです。でも、初期の録音は雑音の中に微かに音が聞こえると言った程度だったようです。
1924年に録音が電気化され一気に音質や音量が改善されます。所謂SP時代の開幕でして、音楽の商業化もぐんと進みます。我が国でも、クラシックに限らず浄瑠璃や浪曲・落語に至る迄数多くの録音が残されています。その次の大きな技術革新がLPの開発でして、‘48年の事です。長時間の録音が可能となると共に音質的にも非常な進展がありました。
‘56年になりますとステレオ録音が商業化されます。‘80年頃より電気録音方式が一歩前進しましてデジタル録音が始まります。これに合わせる様に、CDが商業化されて来る、そんな所がざっと見た録音の歴史です。こう俯瞰しますと、音の記録とその商業化の動きは、20世紀での事件だとお分かりになると思います。
私の個人的な経験は、SP隆盛時代から始まります。手回しゼンマイ仕掛けの駆動方式の蓄音機で、竹針をいちいち切ったり鉄針を使ったりして聞いたものです。家にあったベートーヴェンの第九は15面使って居たと思いますし、中には裏面は飾りの模様のみが彫ってあって片面しか音楽が入って居なかった音盤もありました。初めて友人宅で電蓄の出すLPの音の良さに驚いたのが、高校生の頃でした。その頃ステレオ放送が実験的に始まりまして、汽車が右から左に動く等を面白がったものです。‘60年代に入り、家にステレオを鳴らす装置が入り、このステレオ録音の有難さをつくづくと実感したのです。モノラールのレコードを掛けますと音源が左右のスピーカーの真ん中から集中した形で聞こえ、実はこれは生理的に長時間の鑑賞には向かないものだと判ったからです。こうして録音の歴史を考えて見ますと、一段技術が進む度に音質が幾何級数的に改善された事が思い出されます。この間に実は再生装置の方の技術も長足な進展がありました。システムの中のエネルギーの変換を伴う処、つまりレコードから音を拾い電気化する針と電気信号を機械運動に変換するスピーカーの処辺りを中心に、その開発や改良は目を見張るものがあったのです。
その頃面白い実験がありました。壇上にオーケストラが並び指揮者が出てきて曲を演奏始めます。途中で、レコードを再生装置に掛けて、音源を切り替えます(つまりこの瞬間以降楽隊は演奏する真似をし続けます)。それで、何処で切り替わったかを当てると言う試みです。実は、殆どの人が当りませんでした。そのくらい再生音が可能とする世界が広がったと言うべきなのでしょう。
デジタル録音となりCD中心となってからは、このエネルギー変換は、スピーカーのみの役割となりました。また、このスピーカーの改良も進み、一昔前は物理特性を追求したものが、むしろ心理学の応用で、如何にすれば“それらしく聞こえるか”に焦点が合った形で進んで居そうです。オーディオと言うのが、一部の好事家のみの趣味となった事の背景には、これらの技術進歩の結果として成果の一般化が進み、それまではマニアだけに許されたレベルに迄達したと言う事が上げられるのでしょう。それはそれで大変に結構な事かと思います。
現在はクラシックの世界は、スター不足の状況です。片やCDは手軽に製作され偉く安いものが出る様になっています。そんな状況の下で、CDの発売業者は昔々の録音の復刻を沢山出しています。それはそれなりに意義のある仕事とは思いますが、あからさまに音質の劣る音源の復刻は如何なものかと時に思います。
折角人類の叡智を集めてここ迄来た録音技術ですから、出来れば良い音質の音楽を聴きたいと思うのです。
さて、この処やや理に勝ったお話が続きました。実はこの後も暫くは続く予定なのです。そこで今回は閑話休題的な軽いお話を致しましょう。
今回の題は「ホフヌング」と在ります。ご存知の方は、かなりのクラシック音楽のファンであると思います。この名前は、今に二つの事を残した人の名前なのです。一つは「ホフヌング音楽会(祭)」、もう一つは音楽をテーマとした何冊もの漫画集です。
実はジェラード・ホフヌングはもう50年位前に亡くなった方なのです。でも生まれが1925年でして、マハティールさんやサッチャーさんと同い年ですので、ご存命でもおかしくは無いのですが、実は34歳と言う若さで亡くなりました。ユダヤ系のドイツ人として生まれ、ナチを逃れてイギリスに少年の頃亡命したのです。イギリスで彼は美術を学び、それで学校の先生をしていました。同時にアルバイト的に始めた挿絵が徐々に人気を得る様になります。音楽は独学でして、演奏した楽器は一番大きな金管楽器であるチューバだったのです。チューバ奏者としては、アマチュアのオーケストラで演奏をして居ました。彼は、独特の知的で上質なユーモアの感覚の持ち主でありまして、その彼の感性を上手に生かしたクラシック音楽に関連するひとこま漫画がこれも徐々に人気を博する様になります。これを通じて、一流のプロの演奏家達との交友が広がり、彼の周囲に品の良いそして機嫌の良い音楽家達がいつもたむろを始めた様です。
その彼が中心となって、友人の一流のプロ達と一緒に、何時もは謹厳に聞いているクラシックの音楽会を洒落のめしたユーモア音楽会を開いたのが、‘56年だったのです。その後‘58年に再演され、彼の生前には二回開かれて居ます。彼の死後も、世界中で再演され続けまして、我が国でも‘92年と‘95年に開かれて居ます。これらの音楽会の様子は、古くはレコードで発売され、今ではCD化されて居て、手軽に楽しめます。言葉で説明するのは無理なので、どうか音で聞いて下さい。思わず大笑いさせられます。又、例えば日本での公演では、N響の先輩の千葉馨氏が、水道工事の作業員の格好で出てきまして、水道管と先に付けた漏斗とで、ホルン協奏曲を吹きました。これは初演の時はその千葉さんの先生であったデニス・ブレインが吹いたのです。この様に、奏者の扮装や身振り・仕種で笑う処も多くありますので、実は皆さんには是非次回にはお出かけ頂きたいのです。
この音楽会の基になって居る彼のユーモアが直接に楽しめるのが、何冊も残った漫画本なのです。申しました通り知的で上品でしかも音楽が好きで仕方ないと言った感じがどの一冊にも溢れて居ます。例えば、鼻高々な指揮者の下で楽員達は表面の穏やかに演奏して居ますが、彼らの頭の中では、夫々の楽器を使った指揮者への反逆を考えて居ると言うテーマの6枚位の連作が在ります。こんなのを見ると、アマチュアでもオケの経験のある連中は転げ回って喜びます。多分彼も同じ思いをしょっちゅうしているのでしょう。
この彼の漫画本は、日本語に訳され手短な解説も入れた形で市販されて居ます。
発売元は下記の書店でして、クラシックの楽譜の大手取り扱い書店のようです。
そもそも音楽は、宗教と祭がその起源では無いかと思われます。その祭も、最初は神への感謝みたいな処から始まったのでしょうから、宗教が音楽を生んだと考えてもさして間違いでは無いのかも知れません。世界中に沢山ある宗教の内で、音楽を重要視する宗教もあれば、儀式や典礼に於いて音楽を使用しない宗教もあります。キリスト教は音楽を重要視し布教にも意識的に使う様ですが、その中で例えばロシアや東欧諸国に信者の多いギリシア正教では、声楽は重要でも楽器は使用しない様です。イスラム教では、ペルシア系の一部密教的宗派を除くと原則的に音楽は使用しない様であります。仏教でも坊さん達の唱えるお経を声楽パフォーマンスとして聴く声明(しょうみょう)の会等が時折催されます。そんな訳で、音楽と宗教とは実際に非常に近いのだと思います。
でも、私は普通の日本人でありまして、特定の宗教を信じてその宗教の教えを意識的に守ると言う様な生活態度は持ち合わせて居りません。先祖のお墓はお寺にあり、生まれた子供の為にはお宮参りをし、自分の結婚式は神前で上げて、さして矛盾も感じて居らないのです。でも世界中で宗教的な施設、寺院とか神社とかモスク等、を訪れますと、何か粛然とした気持ちの中で見学をする、これも通常の日本人と同様なのであります。
クラシック音楽の中には、宗教曲と分類しなければならない曲が多くあります。今回は少しこの分野に付いて考えて見ましょう。西洋の古典音楽の中の宗教曲ですので、宗教とはキリスト教を意味します。さて、世界史で習った通りですが、キリスト教には大きく分けると、カソリック(旧教)とプロテスタント(新教)とがあります。音楽が大きな発展を遂げるのが18世紀ですので、その時には既にこの二派は分かれて居た筈ですね。従いまして、宗教音楽と考えられる曲を聴く場合には、どちらのキリスト教の為の音楽であるかが、一応問題になるのだろうと思われます。でも、私はそんな聞き方をした事は在りません。
知識としては、バッハは本当に多くの宗教曲を書いていますが、彼は新教の教会のオルガン奏者であった時代が長いので、新教の教会で、宗教儀式として演奏される事を前提に書いたのであろうとは思います。モーツアルトは、旧教の典礼の為の曲を書いていますが、これはザルツブルグの殿様の宗教的な行事の為の曲なのでしょう。そして、ベートーヴェン以降は、音楽の規模(曲の規模も楽隊の規模も)から考えて見て、教会での祭礼等で演奏される事を前提として居ない、と言う事は演奏会での演奏を前提とした宗教音楽が多く書かれる様になります。つまり教理や教義から離れて、宗教的な情緒や情感を主たる原動力として作曲されたのでは無いかと思うのです。ですから、古いお寺や大きな神社に行った折に一種宗教的は気分の中で見学する様な態度で、これら宗教曲を聞いても、多分罰(ばち)は当らないのだと考えて居ます。
と言う事は、これらの曲は殆どの場合に、声楽を伴う曲となって居まして、時には独唱者が数人と大きな合唱隊が付く事もありますが、彼らが歌っている歌詞そのものには余り拘泥せずに聴いて居ります。最近は字幕がこれ等の歌詞を教えて呉れる事も少なく無いのですが、だから文句を追うと思えば難しく無いのですが、目で字を追いつつ、耳で音を追うのは、どうも耳が手薄になる様な気がしてなりません。声も楽器の一種で、声の出せる音を出して居る、位の気持ちで、音楽そのものを集中して聞いて居ます。そんな風に聞いておりますと、実に心地よい音楽的な愉悦に浸れるのです。バッハの「マタイ受難曲」やモーツアルトやフォーレ・ヴェルディの「レクイエム(鎮魂曲)」等は、何が何だか判らないけど涙が溢れて来る、そんな経験も少なく在りません。
キリスト教とは関係が無いし、知識も無いから宗教曲は遠慮しようと言うのでは、実は音楽的な喜びに出会える機会を自ら狭めて居る事になりそうです。是非実演でお聞きになって下さい。声楽が大きな役割と意味を持つ曲ですので、実演でしか得られない感興は実に大きいのです。