今回は、三番の“英雄”の番です。後年(八番を発表した後で第九の作曲の前の時期)「自作の交響曲の中でどれを好むか」と言う友人の問いにベートーヴェンは「エロイカ」と応えたとの逸話があります。彼にとっても意義深い且印象の大きい曲であったと思われますが、理由として大小三つを上げて置きましょう。
先ず第一は、持病の耳の疾患に気が付き且それが深刻化しつつあり、苦悩の中にあった時代の作品であった事でしょうか。弟に宛てて遺書を書いた時期の直ぐ後に作曲されています。遺書と言っても「死ぬ」と言う文面では無く「死の誘惑を乗り越えて何とか生きる」と言った内容と伝えられていますけど。ですから、元々彼の心情であった理想的な考えやそれを実行する為の意思の力とか精神の強さ等と言う事が、彼自身の為にも重要であった頃と言えましょう。
第二は、先輩のモーツアルト(41曲)やハイドン(107曲)に比べると、彼の交響曲の総数は九曲です。誠に少ないのです。これは、社会現象として、貴族や王族のサロン等で“娯楽的”な音楽であった先輩の時代と変り、音楽ホール的な物が出来、そこで言わば“芸術”作品を多くの人々が聞くと言う形に変った事も理由の一つでしょう。別な言い方をしますと、この時代から音楽に“言葉”がどんどん入り込む事になります。簡単に言うと古典楽派の時代からロマン派の時代へ変わって行ったと言う事です。(と言っても、これは社会現象を言ったのであって、モーツアルトの曲は芸術で無いとは言いません、むしろ彼の作品こそ芸術品だと言う方の筆頭に、僕は居る心算でもありますけど)。
もう一つは、時は革命の時代であったと言う事です。フランス革命の年、ベートーヴェンは19歳でした。理想に燃え理念を確りと持ち、未来への希望を熱く胸に置いておける時代に生きて居たのです。貴族階級の出では無かった事もありますが、彼の個人的な憧れの中に革命思想はあった筈です。その確かな具体的な表象としてナポレオンに神経の焦点が合った事は疑いも無い事で、革命の理念の実現者としてのナポレオンを考え乍ら作曲したのでしょう。発表の直前にナポレオンがフランス皇帝になったのを聞いて、怒り且落胆して題名を「ボナパルト」から「エロイカ」に変更したと言う逸話も事実に近いものと考えて宜しいかと思います。
この演奏時間が一時間になりそうな長大な曲は、初演時の観客には必ずしも受けが良くは無かった様ですが、その各楽章について一言づつ述べましょう。
・ 第一楽章。出だしは主和音の強く短い音形が二回現れ、続いてチェロが力強く明瞭な主題を提示します。このメロディーが全曲を通しての有力な手がかりであり続けダイナミックな構成感を醸します。
・ 第二楽章は、葬送行進曲です。沈鬱なリズムに乗ってオーボエ以下が次々と現れ、葬送の雰囲気を高めます。
・ 第三楽章は、スケルツォです。ここでは葬送の気分は拭い去られて、明るいエネルギーに満ちた楽章となって居ます。中間部(トリオ部分)に出て来るホルンの三重奏が印象的に腹に響きます。
・ 第四楽章は、形式的には自由な変奏曲となって居ます。独特なリズムが効果的に使われ、変奏の技巧も冴えて居ます。そしてこれまた彼の他の曲同様に、圧倒的な終曲を迎えます。
大分昔、ミトロプーロフなる指揮者がウィーン・フィルとこの曲を演奏した折、練習の時に指揮者は第一楽章の出だしを、二拍子で振ったらしいのです。実演の時に彼は楽隊に断らずに楽譜通りの四拍子で振り始めた。これを楽隊は練習通りに二拍子で演奏し始め(つまり倍のスピードになったのです)、その瞬間に指揮者も楽隊も気が付いたのですが、止める訳に行かないと言うことで、そのテンポで殆ど全曲を突っ切り、35分で終わったと言う記録が在るそうです。これが出来たと言う事は、楽隊の技術力の高さに驚きますね。
録音媒体は名曲だけに沢山あります。先ずは実演でお聞きになって、C/Dも欲しいとなったら、理想的にはその実演を彷彿とさせる物を探す訳ですが、そんな暇も無いと言うのであれば、何かの縁(指揮者を聞いた事がるとか楽隊を知って居るとか、他の曲で気に入ったものと同じ組み合わせであるとかです)を頼りにお求めになる事では無いかしら。