浄瑠璃の作品に良く出て来る物語の作られ方やその構成を、一つずつ挙げて見て、個別の台本(脚本と言うか原本)を読む時の参考にしようと、幾つか書きました。今回は、「身替りの死」に付いてです。
身替りに死ぬのは、悲劇が大半の浄瑠璃の中でも、緊迫感を以って迫ってくる名場面となる事が多いのです。と言うのも、何かの理由(主筋への忠義であったり、浮世の義理であったりしますが)で、誰かを他の人の替わりに死に至らしめるのは、何ぼ昔の話で在ったにしても、納得性を持たせるのは至難の事になります。当然の事乍ら、人権意識が確りと根付いている現代の人々に取っては荒唐無稽にしか映らないでしょう。それをある程度以上の説得性を持たせて書き上げ、あまつさえ観客の共感を呼び涙を誘う為には、工夫も必要ですし筆力も必要です。こうして、身替りの死の場面を作り上げますと、殆ど必然的に作者の苦労の結晶が緊迫感として表われます。その中に情感が溢れて出ます。話の筋は荒唐無稽と判っていても、その場面の出来具合の上等さから、現在の観客にも同じ様に共感を呼び起こします。ですから、現在でも名場面として多くの人の愛好する一幕に為り得て居るのです。
「一谷嫩軍記」では、法王の隠し子である敦盛を助けろと義経に言われた熊谷直実が、運悪く敦盛と遭遇し、偶々初陣を飾るべく一緒に戦って居た息子を身替りに討ちます。その首を義経の実見に供するのですが、この場面が“陣屋”と呼ばれる処で、前の組討の場面と共に、名場面となって居ます。
「寺子屋」では、恩ある道真公の一子を匿っていた源蔵が、その事が敵方の知る処となり、その子を首にして持って来いと厳命を受けます。まさかそうは出来ないので、誰を身替りに立てようかと迷います(源蔵には子が居ないのです)。そこで、丁度その日に入学してきた新入生を討ちます。首実検に来た松王丸は、「道真公の一子の首に相違無い」と、言い切ります。この後の展開で、実は源蔵の討った子は、松王丸の息子で、源蔵が身替りにするべく先を読んで入学させた事が明らかになります。
代表的な身替りの死の二場面ですが、実に良く出来て居りまして、文楽でも、後に輸入した歌舞伎でも、大人気の出し物になって居ます。そして、この両場面、歌舞伎と文楽で、表現が幾つも違って居ます。夫々に面白いのですが、それは、これ等の演目の個別のお話をする時に、致しましょう。
これ等の場面を見ていますと、時々旧約聖書の「創世記」にある“イサクの献供”の話を思い出します。神に一人息子を生贄にせよと命じられたアブラハムが、言いつけ通り粛々と事を進め、正に息子を殺そうとすると、神が「お前の覚悟は良く判った。イサクを殺す必要は無い」と妥協するのです。キェルケゴール以下多くの哲学者や思索家が解釈に苦しむ場面との事ですが、我が浄瑠璃の世界では、殺してしまうなと、不敬にも考えたりします。
荒唐無稽と判りながら、気が付くとキッチリとその世界に引き込まれて、舞台上の誰彼と自分を重ね合わせて、涙迄流しそうになる自分を発見して、吃驚したりするのが、この身替りの死の各場面です。