鴎外原作・宇野信夫脚色の新歌舞伎「ぢいさんばあさん」の二回目です。前回、原作の気品と風格を損なう事無く、しかも風合いとして使える幾つもの工夫を脚本家は施して居りますと、申し述べました。その一つが、主人公伊織の無意識に鼻を手で触る癖であり、女房のるんがこれを時々たしなめる事で、二人の仲の良さが自然と湧き上がる、そんな工夫でして、これが幕切れに使われて居ります。るん「明日はお墓参りに行きましょうね」伊織「うん、行こう」ここで思わず鼻に手をやります。これが切っ掛けで柝の頭が打たれ、るんがさり気なく伊織の手を抑えて、二人で顔を見合わせ微笑み合い、視線を散っている桜の花に移す中で、幕となります。そう申し上げました。
さて、今は昔の1994年に、現仁左衛門の孝夫と玉三郎がこの芝居を手掛けました。孝夫は初演で、玉三郎が確か二度目であったかと思います。天下の美男役者と美形の女形が、本格的な老け役を演じると言うので、大変な人気を呼んだものです。その何日か目に、孝夫が体調を崩し高熱を発して休演のやむなきに至ります。劇場はこれは大変とばかりに、その月は一役しか持って居なかった勘九郎(現勘三郎)に代役を振ります。勘九郎は大慌てです、と言うのも、この芝居、伊織役は当然の事乍ら、端役も一幕の久右衛門を10年以上前に17代目勘三郎の伊織に付き合っただけだったからです。必死になって全幕分の台詞を一夜漬けで覚える努力をします。それでも心配なので、台詞を順番に紙に書いて弟子に持たせます。お弟子さんは、伊織からは見えるけれどもお客さんからは見えない(例えば障子の影などの)処に潜んで居て、次々に捲って行きます。それをチラチラ見ながら、劇を進行させ、鼻を触る癖の処もちゃんと演じて、いよいよ幕切れに差し掛かります。
るん「明日は、坊のお墓参りに行きましょうね」 伊織「うん、お墓参りに行くとしよう」 ここで約束の柝の頭が来ません。伊織が“あれっ”と思います。下から立膝のるんが小声で「あなた、ハナよ」と促します。“花? そう言えば桜の花が散っているな”と思い「坊のお墓にも桜が咲いて居ような」と、台本に無い捨て台詞を言います。未だ柝の頭は来ません。玉三郎がもう一度「あなた違うの、ハナに触るの」と囁きます。“花に触る? 判った”とばかり伊織は、身を半身に構え手をずいと差し出して、散って居る桜の花びらに触る仕種をします。柝が来ません。仕方なく勘九郎は「あはははは・・・」と笑い出します。ここで、流石の狂言作者も気付いて、エイッとばかり柝の頭を入れ、足早に幕となった様です。勘九郎は“やれやれ急な代演の第一日目がどうやら終わった”と、肩から力を抜いて体を楽にして、幕の下りた舞台を見やります。ばあさんの玉三郎はこの時、畳の上を転げ回って笑いこけて居たとか。
この逸話は、業界紙のゴシップ欄からの剽窃でも無ければ、大部屋の役者さんの暴露話でも在りません。後年、勘三郎襲名で数々のインタビューをこなした勘九郎ご自身が、その中で語って居りました話ですので、ここでご披露しても叱られないと思って居ます。
それにしてもこの舞台を実際に見たかったものです。近年、現勘三郎は本役で伊織に取り組み、玉三郎のるんと共演して居りますが、幕切れは少し違えて上演して居ります。